第十五回/長崎の町の発展(3)開港後に開かれた町 江戸町、築町

 
  元亀2年(1571)の開港後、島原町や大村町など6か町に続いて、長い岬の最先端とその北側一帯に造成されたのが江戸町、内下町、築町であった。その造成が完了した時期は不明であるが、文禄元年(1592)には豊臣秀吉の直轄領(内町)となり、地子銀(固定資産税)が免除された。
 ところで、寛永11年(1634)出島を築造するため長い岬の最先端部分、かつて県庁があった崖を掘削、その土砂で出島を築造、その掘削の跡地に江戸町を造成したという説があるが、江戸町の造成は、出島築造が始まる42年も前のこと、江戸町の造成は、出島の築造とは無関係である。
 
 また江戸町は、大江戸、現在の東京都にちなんで命名されたともいわれるが、徳川家康が大江戸を居城としたのは、天正18年(1590)のこと、大江戸はまだまだ葦の生い茂る片田舎でしかなかった。ということは、江戸町の町名も大江戸とは無関係なのである。
 ちなみに「戸」というのは戸町や平戸の「戸」と同様、入り口のこと、江戸町は長崎港の入り口ということで命名されたようである。
 以来、江戸町は、出島町の門前町?として繁栄、同町の紋章はオランダ商館長から贈られたというJDMを組み合わせたもので、俗に「たこのまくら」と呼ばれている。


▲江戸町紋章「たこのまくら」

 
 江戸町の北側、万才町の東側にあったのが内下町、内町の下町ということであるが、寛文12年(1672)大町ということで分割され、本下町と今下町となった。ちなみに今下町は、シーボルトの専属絵師川原慶賀が居住したことで知られる。
 築町は、海面を築(つ)き出して造成されたので「つきまち」と呼ばれたが、寛文12年(1672)大町ということで分割され、東築町と西築町となった。

▲俵物役所碑

 西築町の、現在の銅座町の十八親和銀行本店の場所には、江戸時代、俵物(ひょうもつ)役所があった。同役所は、寛政10年(1798)に開設されたもので、中国貿易の重要な輸出品で俵物三品と呼ばれた煎海鼠(いりこ)、干鮑(ほしあわび)、鱶鰭(ふかひれ)を中心に集荷、加工した。
 なお俵物役所は、文久元年(1861)に産物会所、慶応3年(1867)には長崎商会と改称され、外国との貿易を行ったが、明治2年(1869)廃止となった。

 
 また明治元年(1868)中島川の東築町と西浜町、現在の浜町の間に架けられたのがわが国最初の鉄橋(てつきょう)銕橋(くろがねばし・てつばし)である。
 江戸時代、中島川は大川と呼ばれ、現在の銕橋の場所には大橋と呼ばれた木橋が架けられていたが、洪水の度ごとに流落、その都度、架け替えられていた。
  そのようななか慶応3年(1867)5月12日の洪水でも流落したので、今度は、丈夫な鉄材で架け替えられることになった。桁橋の製作は、現在の三菱重工業長崎造船所の前身、長崎製鉄所で行われ、長さ約27メートルの銕橋が竣工したのは、慶応4年(1868)のこと、8月1日、盛大に渡り初めが行われた。


▲絵葉書「銕橋」

 
  ところで当初、小判で3000両ほどと見積もられた、この銕橋は、実際に架けてみると、小判で1万6000両、現在の金額で約16億円と莫大な金額となった。そこで、「鉄(かね)ではなく金(かね)の橋」とか「鉄(かね)の橋だけにはし(端・橋)た金(がね)では架からない」などと揶揄された。 

▲現在の「銕橋」
 以来、銕橋は、昭和6年(1931)2代目が鉄筋コンクリートで架け替えられるまで、多くの人々に利用された。現在の銕橋は、平成2年(1990)に架け替えられた3代目である。ちなみにこの銕橋は、国道324号線に架かることから、浜の町のアーケードとともに自動車の通らない国道として全国に有名である。
 なお明治5年(1872)東築町と西築町は合併、再び築町となった。
 
 
 NPO法人長崎史談会会長 原田博二
 

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