第一号 永井 隆 昭和24年(1949)12月3日
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明治41年(1908)2月3日島根県松江市に生まれる。同年飯石郡飯石村(現・雲南市三刀屋町)移住。地元小・中・高校を経て、昭和3年(1928)長崎医科大学に入学。同大籠球部に所属・活躍、アララギ社歌会にも参加。下宿先で隠れキリシタンの末裔・森山緑(洗礼名マリア)にめぐり会う。
昭和7年(1932)5月大学卒業時、急性中耳炎にかかり右耳が不自由となり、内科をあきらめ、レントゲン科で放射線物理療法を研究する。
昭和8年(1933)2月短期医師として満州事変に従軍。翌
昭和9年(1934)2月大学研究室助手に復帰。6月浦上教会で洗礼を受ける(洗礼名パウロ)。8月森山緑と結婚。その仲介により「ヴィンセンシオ会」で無料診断・無料奉仕活動を実践する。
昭和12年(1937)長崎医科大学講師に就任。同年7月勃発の日中戦争に軍医中尉として出征、日本軍のみならず中国人への医療にも従事する。
昭和15年(1940)2月帰国、4月助教授・物理的療法科部長に就任。
昭和19年(1944)3月医学博士号取得。戦時中結核のX線検診を続けたため、
昭和20年(1945)6月被曝による白血病となり、余命3年の宣告を受ける。
8月9日爆心地から700mの医大診察室で被爆、頭部に重傷を負うが、布を頭に巻いて救護活動にあたる。3日目帰宅し、妻緑の骨片を拾い埋葬する。8月12日家族が疎開する三山に救護本部を設置して被爆者の救護にあたる。
9月こん睡状態に陥るが奇跡的に回復。10月三山救護所で救護活動の合間に「原子爆弾救護報告書」を執筆、医大に提出。
昭和21年(1946)1月医大教授に就任するが、7月長崎駅近くで倒れ、その後は病床に伏す。8月「長崎の鐘」発行。11月長崎医学会にて「原子病と原子医学」を発表。
昭和23年(1948)4月「子の子を残して」発行。8月「如己堂」完成、休職して療養に専念。以来、ヘレンケラー、昭和天皇などの見舞いを受ける。
昭和24年(1949)12月第1号長崎市名誉市民選定。
昭和26年(1951)5月1日死去(43歳)。 |
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第二号 カロライン・S・ペカム 昭和32年(1957)7月12日
選定 |
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明治24年(1891)アメリカ合衆国ウイスコンシン州ブルームに生まれる。
明治42年(1909)6月同州グランドダビット・ハイスクール、
明治45年(1912)6月ラクロス師範学校、卒業。9月から1年間同州ギルマントン・ハイスクールの教員を務める。
大正2年(1913)9月同州アプトン市ローレンス大学入学。大正4年(1915)6月同大学卒業、バチェラー・オブ・アーツの学位を受ける。
大正6年(1917)5月活水女学校大学部本科・予科教員に就任。
大正8年(1919)4月活水女子専門学校教授に就任。
大正10年(1921)3月帰米のうえ、ウイスコンシン大学に入学。
大正11年(1922)同大学卒業、マスター・オブ・アーツの学位を取得。
同年10月再び活水女子専門学校に帰任。大正15年(1926)6月活水女学校教員を兼任。5年毎の賜暇を除くほかは活水の宣教師として奉仕した。ただしその間福岡女学院の院長が賜暇帰米の間は院長代理をしたことがある。
明るい性格で緻密な頭脳の持ち主で、「ナンバリングマシン」のあだ名をつけられたほど、数にかけては達者で、日本在住の宣教師会の会計を永年務めた。
昭和23年(1948)10月活水女子専門学校校長に就任。副校長は鈴木謙吉。
昭和24年(1949)7月東山手に寄宿舎新築献堂式。8月被爆校舎を全面的修復。昭和25年(1950)3月新学制により女子短期大学となる。昭和26年(1951)私立学校法施行により、活水女学財団法人を学校法人活水学院に改組。9月旧鎮西校舎を改築、中学校・小学校を移転献堂式。
昭和27年(1952)教育功労により勲四等瑞宝章叙勲。
昭和29年(1954)1月休暇帰米から帰任。9月中学・高校体育館新築落成。
昭和30年(1955)11月教育功労者として長崎市教育委員会から表彰。
昭和32年(1957)7月東山手町16番地に宣教師館新築落成。同月院長辞任、後任に橋本重郎就任。
7月長崎市名誉市民に選定され、勲四等宝冠章の叙勲。
昭和57年(1982)12月12日アメリカで死去(91歳)。 |
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第三号 古屋野宏平 昭和43年(1968)12月21日
選定 |
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明治19年(1886)9月2日岡山県都宇郡五日市村(倉敷市)に生まれる。
明治44年(1911)京都帝国大学医科大学卒業(外科専攻)。
大正12年(1923)長崎医学専門学校教授就任。同年医学博士号取得。
大正13年(1924)長崎医科大学教授。
大正14年(1925)から大正15年(1926)にかけて欧米に出張。
昭和20年(1945)8月9日の原子爆弾に被爆するが、学長代理として、救護活動の指揮にあたる。
昭和20年から昭和23年(1948)にかけて長崎医科大学学長、同付属医学専門学校部長、東亜風土病研究所長、風土病研究所長を歴任し、大学の復興に尽力する。
昭和23年から昭和27年(1952)にかけて国立嬉野病院長。
昭和27年から昭和33年(1958)にかけて長崎大学学長を務める。
その一方で、昭和14年(1939)には、YMCA医科連盟救護団長として華中蕪湖で医療奉仕活動を行うほか、
昭和38年(1963)に結成された「シュワイツァー日本友の会の長崎支部長を務めた。
昭和43年(1968)12月長崎名誉市民選定。
昭和51年(1976)1月20日死去(89歳)。 |
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第四号 田川 務 昭和44年(1969)3月29日
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明治30年(1897)12月15日長崎県北高木郡小長井村(現・諫早市小長井町)田原名の母の実家で生まれる。父はすでに亡く、母が再婚したため、母親の父母と妹に養育される。その後大村野田郷(現・大村市野田町)の伯父のもとに祖父母とともに移り住む。
西大村尋常小学校(4年生まで)から竹松尋常小学校に転校して卒業、祖母とともに、叔母の嫁ぎ先峰家に引き取られ、農作業に従事するかたわら、夜間中学講義録を持つ家に行って勉強する。
大正3年(1914)長崎に行き当時長崎市役所に勤務の伯父の家に寄寓、長崎地方裁判所の給仕として働く。
大正5年(1916)林弁護士事務所の書記となって、同所に住みこみ、弁護士試験合格を目指して勉強を開始する。
大正7年(1918)12月佐賀の歩兵連隊に入営、中国青島に転属後、
大正9年(1920)11月満期除隊、林事務所に復帰する。この間も法律の勉強を続ける。
大正10年(1921)5月腕試しに松山で受けた「裁判所書記登用試験は1回で合格。
大正11年(1922)4月上京明治大学高等研究科に入学、11月弁護士試験に合格。
大正12年(1923)長崎市大村町(現・万才町)の旅館の1室を弁護士事務所兼住居として開業する。
大正13年(1924)結婚、新居を後興前町(現・興善町)に構える。昭和5年(1930)本紺屋町(栄町)に転宅。
昭和20年(1945)の原爆をここで受け、自宅は焼失、被傷した長女を探しに原子野を走り、長与丸田温泉で見つける。鳴滝の「城の古址」に住み、忙しい弁護士業務に励む。
昭和23年(1948)新興善小学校PTA会長、長崎市・県の同連合会長となる。
昭和26年(1951)4月長崎市長に当選、以後4期16年間同職を務め、この間、被爆からの再建復興、教育施設の整備、稲佐山開発、水源開発等に力を注ぐ(公会堂の建設も田川時代)。
昭和43年(1968)矢上町に新居。昭和44年3月(1969)長崎市名誉市民選定。
昭和52年(1977)9月5日死去(79歳)。 |
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第五号 諸谷義武 平成8年(1996)3月28日
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明治40年(1907)1月17日熊本県天草郡富岡村(現・苓北町)に生まれる。
地元小・高等小学校を経て、長崎市立商業学校に入学、新聞配達をしながら卒業。昭和2年(1927)長崎高等商業学校入学。
昭和5年(1930)同校卒業、明治製菓入社。昭和10年(1935)結婚。
昭和12年(1937)長崎に帰り、萬生丸の支配人となる。昭和20年(1945)底曳き網漁業者をまとめた丸徳海洋漁業組合ができ、副組合長となる。
同年8月9日直前に大波止から移った新中川町の自宅で被爆。稲佐の船員家族の見舞いに行くが、困難で稲佐橋を渡って引き返し、悲惨な光景を見る。
昭和22年(1947)以来、漁業組合と民主党から推されて長崎市議会議員2期8年(最後は副議長)を務める。
昭和24年(1949)長崎市美術振興会会長に就任。その後長崎県美術協会設立。
昭和25年(1950)前進丸漁業部を創立して独立。
昭和28年(1953)長崎製氷(株)創設に参画・監査役。
昭和30年(1955)以来、長崎県議会議員3期12年(最後は副議長)を務める。同年長崎の新聞2社が合併してできた長崎新聞社の取締役就任。
昭和32年(1957)長崎剣道連盟協会会長・
昭和33年(1958)ボーイスカウト日本連盟長崎県理事・後に同長崎地区協議会会長・同年長崎造船短期大学役員就任。
昭和42年(1967)以来、長崎市長3期12年を務める。この間、原爆廃絶・平和運動(初の海外原爆展・広島市と平和文化都市提携など)、上水道整備、観光振興、芸術文化振興に尽力(競輪廃止)。
昭和55年(1980)勲三等旭日中綬章受章。
昭和61年(1986)長崎県公安委員長を務める。
平成6年(1994)長崎釈尊鑽仰会会長就任。平成8年(1996)長崎市名誉市民選定。
平成14年(2002)年4月16日死去(95歳)。 |
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第六号 土山秀夫 平成22年(2010)12月13日
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大正14年(1925)4月23日長崎市に生まれる。
昭和18年(1943)長崎県立長崎中学校卒業。
昭和20年(1945)8月9日には長崎を離れていたが兄を亡くし、翌日に長崎に戻りみずからも被爆。
昭和22年(1947)旧制高校3年で初めて書いた小説が入賞。
昭和27年(1952)長崎大学長崎医科大学卒業(内分泌病理学専攻)、その後、長崎大学医学部研究生・助手・講師・助教授を務める。
昭和32年(1957)5月医学博士号取得。
昭和31年(1956)雑誌の懸賞小説で1位となり、土英雄の名前で10本ばかり医学畑ミステリー小説を執筆、江戸川乱歩からプロ作家入りを勧められる。
昭和34年(1959)アメリカ・イリノイ大学客員研究員
。 [〜昭和36年(1961)まで]
昭和44年(1969)長崎大学医学部教授就任。
昭和55年(1980)日本組織細胞化学会会長就任。
昭和57年(1982)10月
長崎大学医学部長就任。
[〜昭和61年(1986)9月まで]
昭和63年(1988)10月 長崎大学学長就任
。[〜平成4年(1992)10月まで]
平成2年(1990)長崎平和祈念式典の平和宣言文起草委員を務める。
平成5年(1993)エッセイ集「さらば、クライスラー」を刊行。
平成12年(2000)勲二等旭日重光章受章。
平成15年(2003)世界NGO会議「核兵器廃絶−地球市民集会ナガサキ」実行委員長を務めはじめる。
平成16年(2004)4月 世界平和アピール七人委員会委員就任。
平成22年(2010)12月 長崎市名誉市民選定。
平成23年(2011)5月 名誉市民年金全額をもとに「土山秀夫平和基金」を創設。同年「論文集 核廃絶への道」を刊行。同年従三位叙位。
平成24年(2012)「あてどなき脱出 土山秀夫推理小説集」を刊行。
平成29年(2017)9月2日死去(92歳)。 |
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第七号 カズオ・イシグロ 平成30年(2018)3月15日 選定 |
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昭和29年(1954)11月8日長崎市新中川町に生まれる。
父 石黒鎮雄は長崎海洋気象台に努める海洋学者。
母 静子は長崎生まれで被爆者。幼少期長崎市立桜ケ丘幼稚園に通園。
昭和35年(1960)父がイギリス国立海洋研究所長ジョージ・ディーコンの招きで渡英し、同研究所主任研究員になったため、一家でサリー州ギルドフォードに移住し、現地の小学校・グラマースクールに通学。卒業後にギャップ・イヤーを取り、北アメリカを旅行したり、デモテープを制作しレコード会社に送ったりしていた。
昭和49年(1974)ケント大学英文学科、昭和55年(1980)イースト・アングリア大学大学院創作学科に進学、批評家で作家マルカム・ブラッドベリの指導を受け、小説を書き始めた。卒業後一時ミュージシャンを目指すが、文学者へ進路を決定。
昭和57年(1982)処女作「女たちの遠い夏」(日本語版はのち「遠い山なみの光」と改題)で王立文学協会賞を受賞し、9ヶ国語に翻訳される。
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昭和58年(1983)第2作「「「浮世の画家」ウイットブレッド賞を受賞。同年イギリス人のローナン・アン・マクドゥガルと結婚。
平成元年(1989)第3作「日の名残り」で英国圏最高に文学賞とされるブッカー賞を35歳の若さで受賞し、イギリスを代表する作家となる。
平成7年(1995)第4作「充たされざる者」、
平成12年(2000)第5作「わたしたちが孤児だったころ」、
平成17年(2005)第6作「わたしを離さないで」を出版。同年公開の英中合作映画「上海
の伯爵夫人」の脚本を担当。平成21年(2009)初の短編集「夜想曲集」、
平成27年(2015)長編作品「忘れられた巨人」を出版。以上8作の日本語訳の発行部数は
平成29年(2017)10月現在で累計203万部を数える。
平成29年(2017)ノーベル文学賞受賞。
平成30年(2018)長崎県名誉県民・長崎市名誉市民選定。 |
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