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第七回/今年は歌人・斎藤茂吉来崎100周年 |
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長崎歌壇に大きな足跡を残した斎藤茂吉は、いまから丁度100年前の大正6年(1917)12月17日午前8時5分に当時の最大特急列車で東京を出発し、翌18日午後5時5分に長崎駅に到着している。長崎医学専門学校(現・長崎大学医学部)教授に赴任するためである。同年11月にはそのための下打合せに約1週間滞在している。
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1.長崎到着の日は時雨(しぐれ)の降る寒い時節であった。当時、今町58番地にあった「みどりや旅館」に投宿する。現在の金屋町2番9号小林病院の場所である。
しらぬひ筑紫(つくし)の国(くに)の長崎(ながさき)に
しはぶきにつつ一夜(ひとよ)ねにけり |
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2.以来10数日はここに宿泊して、浦上山里村(現・坂本1丁目)の医専に通勤した。旅館からも、通勤途上からも原爆で消えた壮大な分紫山福済寺の大伽藍がよく見えた。 |
あはれあはれここは肥前(ひぜん)の長崎(ながさき)か
唐寺(からでら)の甍(いらか)に降(ふ)る
寒(さむ)き雨(あめ)
親しく交際した郷土史家の古賀十二郎から「唐寺」は「とうでら」と読むと教えられ、以後の短歌ではそう詠んでいる。福済寺が好きで時々散歩に立ち寄っている。 |
福済寺 |
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3.その暮れか翌大正7年(1918)新年早々からは、金屋町21番地(現・金屋町6番)の2階建ての二軒長屋に仮住みし、4月14日、以後、約3年間住むことになる東中町54番地(現・中町6番27号)の木造2階建ての「寓居」に移転している。
ここは現在、鉄筋コンクリート4階建てに建替えられ、法律事務所になっているが、「斎藤茂吉寓居の跡」と記す石碑と説明板が建てられている。
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「斎藤茂吉寓居の跡」の石碑 |
そして、近くにある桜町公園に、本人お気に入りの短歌「太笛」の石碑が建立されている。
朝(あさ)あけて船(ふね)より鳴(な)れる太笛(ふとぶえ)の
こだまはながし竝(な)みよろふ山(やま) |
「太笛」の石碑 |
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4.寓居のすぐ上方に黄檗寺院の万寿山聖福寺があった。
聖福寺(しやうふくじ)の鐘の音ちかしかさなれる
家の甍(いらか)を越えつつ聞こゆ |
聖福寺 |
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5.中町天主堂も近くにあって、そこの鐘もよく聞こえた。
中町の天主堂(てんしゅだう)の鐘近く聞き
二たびの夏過ぎむとすらし |
中町天主堂(長崎市提供) |
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6.大浦天主堂については、やはり親しかった長崎高等商業学校教授で郷土史家の武藤長蔵に聖体降福式に誘われるが腹痛で行けなかったことを詠んだ短歌を残している。
けふ一日(ひとひ)腹をいためて臥(ふ)しをれば
聖きまとゐに行きがてなくに |
大浦天主堂(長崎市提供) |
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7.浦上天主堂を詠む短歌は次のとおりで、大正8年(1919)9月10日に訪れている。
浦上天主堂(うらかみてんしゅだう)サンタマリアの殿堂
あるひは単純に御堂(みだう)とぞいふ |
浦上天主堂(長崎市提供) |
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8.なお、西坂の日本二十六聖人殉教地については
西坂(にしざか)を伴天連(ばてれん)
不浄(ふじやう)の地(ち)といひて
言継(いひつ)ぎにけり悲しくもあるか |
日本二十六聖人殉教地 |
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9.また、木場郷(現・三つ山町)の三つ山教会を詠んだ短歌も残している。
信徒のため宝盒抄略といふ書物
御堂の中にぽつりとありぬ |
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10.その教会の近くにあった墓碑の短歌もある。
かかる墓もあはれなりけり
「ドミニカ柿本スギ之墓行年九歳」 |
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11.一方、鍛冶屋町の黄檗寺院・聖寿山崇福寺で詠んだらしい短歌に、次がある。 |
黄檗の傑れし僧のおもかげを
きのふも偲びけふもおもほゆ |
崇福寺 |
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12.寺町にある黄檗寺院・東明山興福寺には、帰京後に長崎を偲び、唐寺を詠んだ短歌が歌碑となっていて、それに因んだ百日紅(さるすべべり)の木を見ることができる。 |
長崎の昼しづかなる唐寺(たうでら)や
おもひいずれば白(しろ)きさるすべりの花(はな) |
興福寺 |
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以上、主として長崎市内の唐寺と天主堂を詠んだ短歌を選んで紹介したが、茂吉は、このほかにも長崎の風物・風景を詠った短歌を多く残しているので、来崎100周年の今年、それらを鑑賞しながら、ゆかりの地を散策されることをお勧めする。 |
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