第一回/バドミントンもボウリングも長崎で始まる

 

 今年は、長崎がんばらんば国体の年である。長崎市内でも九月七日(日)から十四日(日)にかけて長崎市民総合プールで水泳(競泳・水球・シンクロナイズドスイミング)が、また、十月十三日(月・祝)から二十二日(水)にかけては、長崎県立総合体育館やかきどまりの長崎市総合運動公園などで、体操(競技)、バスケットボール、テニス、バドミントン、ライフル射撃、ボウリング、ラグビーフットボール、ボート、セーリングといった正式競技が行われる。

 
 このほか公開競技として高等学校野球(硬式)やデモンストレーション行事(スポーツ)としてビリヤード、お手玉、けん玉も行われる。また、十一月一日(土)から三日(月・祝)までの全国障害者スポーツ大会(長崎がんばらんば大会)では、水泳、フライングディスク、ボウリング、バスケットボール、車椅子バスケットボールといった競技が市内各地の施設で行われる。

 これらの競技のうち、バドミントン・ボウリング・ビリヤード・けん玉については、わが国での発祥が長崎であることはよく知られている。
 バドミントンは、江戸時代、オランダ商館の人たちがラケットと「ウーラング」(羽根)を出島に持ち込み遊んでいた。その絵図(「長崎阿蘭陀屋敷絵図」※写真1)や記録(「紅毛雑話」※写真2など)が残されていて、昭和五十四年(1979)出島の一画に長崎県バドミントン協会によって「バドミントン伝来之地」記念碑※写真3が建てられた。平成十五(2003)年七・八月の「長崎ゆめ高総体」の期間には、「バドミントンは出島から展」が同地で開催され、高校生はじめ多くの来場者で賑わった。



 

 
 


 ボウリングについては、日本初の英字新聞「ナガサキ・シッピングリスト・アンド・アドバタイザー※写真4」誌の1861(文久元)年七月発行・十号に広馬場にボウリングサロンを開設する旨の広告文が掲載され、その日付「六月二十二日」が昭和四十六(1971)年日本ボウリング場協会によって「ボウリングの日」と定められた。松が枝町には平成十五(2003)年同協会の社団法人化三十周年記念として「ボウリング発祥の地記念碑※写真5」が建てられた。

 ビリヤード(玉突)については、歴代商館長が残す「阿蘭陀商館長日記」中、1652(慶安五)年と翌年に、その頃長崎奉行であった馬場重利、黒川正直、甲斐庄正述らが「玉突」を見たり遊んだりしたという記述があり、その後にも出島に出入りした水戸藩地理学者長久保赤水、西洋風画家司馬江漢、長崎奉行遠山景晋、狂歌師大田蜀山人といった日本人が見聞記を残していて、江戸時代に出島でビリヤードが盛んに行われていたことが分かる。
 けん玉についても、やはり江戸時代の安永六・七(1777・8)年頃に中国から長崎に伝わったという記録(「嬉遊笑覧」)が残っている。

 
 このほか、ヨットが日本で最初に作られたのが幕末長崎であるとか、ボート競技のわが国で先駆をなすのが長崎ペーロンといってよいであろうとか、また、幕末グラバー邸にはすでにテニスコートがあったし、柔道については姿三四郎のモデルといわれる講道館出身の西郷四郎が明治の長崎で柔道界はもとより水泳界でも活躍した。その顕彰碑(市立諏訪体育館前)や墓地(大光寺)が現存する※写真6ほか、同顕彰碑のある長崎公園には剣道の達人山岡鉄太郎(鉄舟)籠手田安定記念碑※写真7も建っているといったように、各種スポーツ関係者の興味をそそる話題や史跡名勝に事欠かないのがわが町「史都長崎」の特色である。

 国体開催によって全国から多くの人々が訪れるこの機会に、これらスポーツの歴史に関する「長崎さるく」や展覧会などを実施して、国体関係者への「お・も・て・な・し」の一助にすることは、国際観光文化都市・長崎にとって非常に大事なことと考える。関係筋において、それらの企画が進んでいるとも聞くので、その本格的な実施と成功を祈ってやまない。

長崎史談会相談役 宮川雅一

 

写真提供: 長崎歴史文化博物館

 

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