第十八回/長崎の町の発展(六)開港後に開かれた町 万屋町、浜町、鍛冶屋町

 
 万屋町は、大川と呼ばれた中島川の河口に造成された町で、最初、朝鮮半島の人たちが多く居住したので高麗町と呼ばれた。
 しかし、後に朝鮮半島の人たちが現在の伊勢町一帯に移住、新高麗町を造成すると、高麗町には、鍛冶職人たちが移住したので、高麗町は鍛冶屋町と改称された。さらに鍛冶職人の多くが現在の鍛冶屋町に移住、今(いま)鍛冶屋町を造成すると、鍛冶屋町は本(もと)からあった鍛冶屋町ということで、本鍛冶屋町と改称された。
 以後も本鍛冶屋町には、鍛冶職人が居住したが、鍛冶職人以外の人たちも多く居住、反対に今鍛冶屋町は、寛文12(1672)年に分割されて出来(でき)鍛冶屋町が造成されるなど長崎の鍛冶業の中心となっていった。
 その後、本鍛冶屋町は、延宝6(1678)年に多くの業種の人たちが集まった町ということで万屋町と改称され、現在に至っている。


▲東・西浜町、万屋町、今・出来鍛冶屋町『長崎細見圖』

 
 
 浜町は、高麗町、現在の万屋町の南側の海岸に造成された町で、当初、浜町と呼ばれたが、寛文12年、東浜町と西浜町に分割された。しかし、昭和41(1966)年に再び合併、浜町となり、現在に至っている。
 ところで西浜町、現在の浜町1番一帯にあった高木彦右衛門の屋敷は、本シリーズ(四)五島町の項で紹介した深堀騒動のもう一つの舞台であった。
 というのは、元禄13(1700)年12月19日の大音寺坂(万才町)での深堀鍋島家の家臣深堀三右衛門、柴原武右衛門と町年寄上席高木彦右衛門の仲間(ちゅうげん)又助との口喧嘩は、この日の夕方には又助らが浦五島町の深堀屋敷に押し掛け、三右衛門らの刀を奪うという騒動になった。面目を失った三右衛門らは、深堀から駆け付けた19人の応援の家臣とともに20日の白昼、高木家の屋敷に討ち入り、当主彦右衛門や家来たちを討ち果たした。その後、三右衛門は高木家の玄関で、武右衛門は大橋、現在の銕橋の上でそれぞれ切腹、責めを負った。
 


▲幕末期の久松家屋敷 『長崎細見圖』

 この騒動に対する幕府の裁定は、高木家は断絶、鍋島家の応援の19人の内、10人は切腹、9人は五島に流罪、当主等はお咎め無しで決着した。なお、高木家の屋敷は、浜屋敷と呼ばれ、延宝4(1676)年に彦右衛門が拝領したものであるが、同家の断絶後は、町年寄久松善兵衛に下賜されたので、同家は1384坪もの屋敷を構え維新に至った。

 
 鍛冶屋町は、最初、現在の万屋町の地にあり、鍛冶屋町、さらには本鍛冶屋町と呼ばれたが、現在の鍛冶屋町の地に今鍛冶屋町、さらには出来鍛冶屋町が造成されると、本鍛冶屋町は、万屋町と改称された。
 今鍛冶屋町は、最初、現在の鍛冶屋町通りの両側全部であったが、出来鍛冶屋町を造るため今鍛冶屋町を分割、浜町側が今鍛冶屋町、油屋町側が出来鍛冶屋町となった。しかし、大正2(1913)年に今鍛冶屋町と出来鍛冶屋町は、再び合併、鍛冶屋町となり、現在に至っている。 
 このように今鍛冶屋町と出来鍛冶屋町は、長崎における鍛冶職人の町であったが、その代表が阿山(あやま)家であった。
 阿山家は、初代助右衛門以来、崇福寺の梵鐘(県指定有形文化財)をはじめ大波止の鉄玉(鉄砲玉)、崇福寺大釜、青銅塔(以上、市指定有形文化財)など数々の製品を鋳造した。
 
 なかでも崇福寺の大釜は、飢饉に対して難民に粥を与える(施粥・せじゅく)ため、天和2(1682)年に2代弥兵衛が鋳造したもので、釜の直径は約182p、深さ約173p、1度に4石2斗(約630s)の粥を炊いたという。
 阿山家は、後に安山に改姓、今鍛冶屋町(浜町10番一帯)に居住したが、幕末頃、離散、現在、同家に祀られていた金屋稲荷が八坂神社(鍛冶屋町)に残るばかりである


▲崇福寺大釜

 
 
 NPO法人長崎史談会会長 原田博二
 

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