第十七回/長崎の町の発展(五)開港後に開かれた町 材木町、本紺屋町、袋町、酒屋町

 

 材木(ざいもく)町、本紺屋(もとこうや)町、袋(ふくろ)町、酒屋(さかや)町の4か町は、現在、材木町は賑町の、本紺屋町、袋町、酒屋町は栄町のそれぞれ1部になっている。
 しかし、これら4か町は、文禄2年(1593)に造成された外町では最も古い町であった。この外町というのは、文禄元年(1592)豊臣秀吉によって地租(土地税)が免除された内町(免除以内)に対して地租が免除されなかったので、外町(免除以外)と呼ばれた。
 この外町は、以後、長崎代官が支配、町数も54か町にまで増加したが、元禄12年(1699)内町と外町の区別がなくなり、全て長崎奉行の支配となった。

 


▲「材木町ほか」『長崎細見圖』

 
 ところで材木町は、材木商が多く居住した町であるが、この材木町と対岸の榎津(えのきづ)町の間に橋が架けられた。そこで橋に名前を付けることになったが、適当な名前がなかなか見付からず、結局、賑橋と命名された。というのは材木町も榎津町も木にちなむ町、その2つの町が橋で繋がる、すなわち2つの木が合う、2木(にき)合(あ)う、「にぎあう」ということで賑橋となり、町名も賑町となった。まさにトンチである。
 本紺屋町は、染め物業者が、袋町は、袋物商が、酒屋町は、酒問屋が多く軒を連ねたことからそれぞれ町名となった。
 


▲袋橋(栄町・銀屋町)

  袋町、現在の栄町と銀屋町との間に架かる袋橋は、架設年、架設者ともに不明であるが、江戸時代に大川(中島川)に架けられた貴重な石造アーチ橋として市の有形文化財に指定されている。
 ところで染色にはきれいな水が必要であるが、江戸時代も初期の頃は本紺屋町の、現在の常盤橋一帯はきれいな水であったが、次第に染色には適さなくなった。そこできれいな水を求めて上流に染め物業者が移動、今紺屋(いまこうや)町(現在の魚の町と諏訪町の1部)が造成された。

 
 かつて長崎の町には、本石灰町(現存)、本大工町、本鍛冶屋町、本紙屋町と、本紺屋町のように本(もと)の付く町があったが、これらの町は、もとは紺屋町、石灰町、大工町、鍛冶屋町、紙屋町のように「本」の字はなかった。
 しかし、後に今紺屋町、今石灰町、新大工町(現存)、今鍛冶屋町、新紙屋町が新しく造成されると、紺屋町、石灰町、大工町、鍛冶屋町、紙屋町はもとからあった町ということで、本紺屋町、本石灰町、本大工町、本鍛冶屋町、本紙屋町と「もと」を付けて呼ばれるようになった。
 さらに寛文12年(1672)大きな町を2つ、もしくは3つに分けた際、今紺屋町から中紺屋町が、今石灰町から新石灰町が、新大工町から出来大工町が、今鍛冶屋町から出来鍛冶屋町が分割された。
 このように本(もと)が付く町は、もとからあった町であるが、新たに「今」や「新」が付く町が造成されると、この「今」や「新」が付く町から「中」や「出来」が付く町が分かれた。つまり、これらの町は、町の成立の順序を表しているのである。
 ところで江戸時代、酒屋町(栄町3番)には、鉅鹿(おおが)家の屋敷があった。同家の始祖・魏之琰(ぎ・しえん)は、中国福建省福州府福清県、現在の福建省福清市の生まれで、後に東京(トンキン・ベトナム)に移住、長崎と東京との貿易に従事した。之琰はその子貴(き)とともに長崎に移住、住宅(じゅうたく)唐人(とうじん)となり、長崎に住宅を構えることを許された。貴は、後に投化(帰化)、鉅鹿清兵衛と改称、同家2代を相続した。同家は、長崎を代表する貿易商であったが、唐貿易が不振となった5代祐五郎以降は唐通事を勤め、幕末維新に及んだ。同家の屋敷(敷地399坪余)は壮麗なことで評判で、正保3年(1646)には幕府より派遣された上使奥田八郎右衛門が宿泊、以後も同家は上使等の宿泊にあてられた。
 
邸内には香木で造られた凌雲閣(りょううんかく)と呼ばれた楼閣や東京国王から贈られた釈迦像を祀る仏殿などもあったという。
 このように同家の屋敷は海外から舶載された黒檀や紫檀など様々な香木等で造られていたので、安永4年(1775)の火災で屋敷が焼失した際は、木材の香りが空高く漂い遠くの町々にも及んだという。なお同家の墓地は、西山本町にあり、県の史跡に指定されている。


▲鉅鹿家魏之琰兄弟の墓(西山本町)

 
  しかし元禄11年(1698)後(うしろ)興善町、現在の興善町から発生した火災で、これら土蔵が類焼、唐船の荷物、金額にして銀3377貫目分、現在の金額でざっと50億円が灰となった。そこで西浜町一帯の海面を埋立て新地、現在の新地町を造成、以後、唐船の荷物は、新地の倉庫に収納された。
 
 
 
 NPO法人長崎史談会会長 原田博二
 

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