第九回/明治維新時の長崎

 

 今年は、明治維新150年である。そこで、その年1年間、正確には、慶応4年1月1日から、同年9月8日、慶応が改元されて明治となり、以後、明治元年12月31日までの383日間(旧暦閏年)に、ここ長崎ではどのようなことが起こったか、振り返ってみよう。

   
○慶応4年1月14日、新政府が天領没収の布告を発すると、前年10月着任したばかりで長崎に在勤した最後の奉行(125代)となる河津伊豆守祐邦(1821〜1873)が、それに何の抵抗を示さず、外国船アトリン号に乗って長崎を脱出した。徳川幕府の長崎支配が混乱なく終了したのである。

○同月16日、旧長崎奉行所西役所(旧長崎県庁所在地)に、薩摩藩、長州藩、土佐藩など当時、長崎に蔵屋敷を持っていた18藩が合議制の長崎会議所を結成し、地元の地役人も協力して長崎の行政、外交に当たった。これによって政治的空白が生じることがなく、治安も維持され、混乱に乗じた外国勢力による占領といった不測の事態の発生も免れた。


河津祐邦 

 
○同年2月14日、九州鎮撫使兼外国事務総督(長崎裁判所総督)に任命された澤宣嘉(1835〜73)が参謀、井上聞多(馨・1835〜1915)、長崎取締大村丹後守純煕(大村藩主・1825〜82)らを従え、長崎に入港し、翌15日無事上陸する。

○同月16日には長崎会議所が廃止され、長崎裁判所が正式に発足する。また、同所に九州鎮撫長崎総督府が置かれる。総督となった澤はその重任を果たすため、その人事に苦心し、当時一流の人材を集めた。すなわち、参謀に前記、井上聞多(長州藩)、町田民部(久成・1838〜97・薩摩藩)、参謀兼裁判所判事に野村盛秀(1831〜73・薩摩藩)、参謀助役兼裁判所判事に佐々木三四郎(高行・1830〜1910・土佐藩)、参謀助役に松方助左衛門(正義・1835〜1924・薩摩藩)、大隈八太郎(重信・1838〜1922・佐賀藩)、揚井謙蔵(長州藩)、楠本平之丞(正隆・1838〜1902・大村藩)といった顔ぶれで、後に首相はじめ閣僚などの要職を務める人物が顔を揃えたのである。

○3月24日、九州鎮撫長崎総督府が九州全部(34藩)を管轄することになる。

○閏4月8日、新町(現・興善町)にあった済美館(英・仏・独の語学学校)が広運館に改革され、本学局(国学)・漢学局・洋学局(英仏蘭露清語)を開き、本学局は興善町の元唐通事会所跡に置かれた。長崎大学経済学部・同教育学部などの前身である。

○同月17日、前年から長崎奉行所が開始していた浦上キリシタンの逮捕・取調べを継承して、西方34藩に分散追放することに決定する(浦上四番崩れ)。

○同月19日、総督府が、前年土佐海援隊等に対抗するため長崎奉行がその親衛隊として急遽組織した遊撃隊を新政府側の振遠隊に改組する(隊員333名)。振遠隊は軍事と警察を兼任し、新大工町にあった武道場の乃武館を屯所とした。

○同月27日、土佐海援隊(佐々木三四郎(高行・1830〜1910)隊長)が解散し、同月、土佐商会も閉鎖する。

○同月、佐賀藩(松林源蔵(1826〜75)代表)とグラバー商会が高島炭鉱の共同経営を協約する。わが国近代石炭産業の始まりである。

○5月4日、長崎裁判所を長崎府に改め、総督府が廃止され、澤総督が知府事(後に府知事)に就任する。


澤宣嘉


井上聞多(馨)


松方助左衛門(正義)


大隈八太郎(重信)

 
 ○同月21日、高木仙右衛門(1824〜99)ら浦上キリシタンの中心人物114人が長州・津和野・福山の各藩に追放される(第1次流罪)。

○6月7日、フランス人宣教師ド・ロ(1840〜1914)神父が来崎し、慶応元年(1865)大浦外国人居留地内の南山手に完成した大浦天主堂に入る。

○7月19日、振遠隊318人がイギリス船フロイン号で東北地方へ出発し、23日秋田に到着、以後、戊辰戦争において大いに戦功をあげる。

○8月1日、わが国最初の鉄橋である「くろがね橋」が中島川下流西浜町・築町間に完成し、澤知府事、井上判事らを先頭に渡り初めが行われる。同橋は井上判事の監督で、ドイツ人技師ボーゲルが設計し、オランダ通詞出身の長崎製鉄所頭取本木昌造(1824〜92)が製作に当たったもの。

○同月8日、長崎府庁を立山役所跡に移転し、府庁跡に広運館が移る。

○同日、本木昌造がわが国最初の地方新聞「崎陽雑報」を発刊する。(改元)


本木昌造

 
 ○明治元年10月17日、精得館(元小島養生所)が長崎医学校と改称される(後に第五高等学校医学部、長崎医学専門学校等を経て長崎大学医学部となる)。

○11月、イギリス国商人トーマス・グラバー(1838〜1911)の製茶技術顧問として来崎したフレデリック・リンガー(1840〜1908)が大浦に「ホーム・リンガー商会」を設立する。

○12月6日、わが国最初の洋式ドック「小菅修船場」(世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つ)が薩摩藩とグラバー商会の共同事業として完成し、盛大な落成式が挙行される。


小菅修船場

 
○同月20日、振遠隊がロシア商船コレヤ号で長崎港へ帰着する。戦死19人、戦病死4人、負傷者19人が出るが、死者は旧大徳寺跡にできた梅香崎招魂社に丁重に葬られる。

○同月下旬、唐人屋敷の処分が始まり、そこの清国人たちが、それまで荷蔵だけで住居や店舗のなかった新地蔵所に進出し、中国人居留地が形成された。現在の新地中華街の始まりである。

○この年、ド・ロ神父が大浦天主堂で「教会暦」「聖教日課」を石版印刷する。わが国最初の石版印刷である。

○この年、新政府が神仏分離令(太政官布告)を発令したため、多くの仏寺が神社として存続するか、廃滅するかを余儀なくされた。
神社として存続したものは、現応寺→八坂神社、玉泉院→玉泉神社、威福寺→桜馬場天満宮、神宮寺→金刀毘羅神社、金剛院→大崎神社、願成寺→愛宕神社、万福寺→淵神社、大覚寺→宮地嶽神社など、廃滅したものに、安禅寺(長崎公園丸馬場)、大徳寺(西小島)、体性寺(玉園町)、青光寺(出来大工町)などがある。
 
 以上のように、明治初年のこの一年間に長崎では、政治、社会、文化の大変革が展開している。そしてその多くが「わが国最初のこと」なのであるが、特別紛争もなく平穏のうちに行われたのは、長崎はもとより、日本にとっても大変幸運であった。
 その背景には、16世紀以来の長い外国人との交流・親善や国内各地からの遊学者の受入れ・対応といった経験で育まれた、和平志向で、何が来ても驚かず対応する世慣れした長崎人の存在があってのことと考えてよいのではなかろうか。

NPO法人 長崎史談会 理事:宮川雅一

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