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材木町(現・賑町)の中尾長三郎宅=来崎最初の宿所(5月23日〜)。 |
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A |
銅座川に面した松窓=唐通事・頴川四郎太(延年)の別荘・第二の宿所(5月某日〜)。 |
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B |
中島川に面した馬場郷(現・桜馬場1丁目1番一帯)の超然楼=翌文政2年(1819)に鉄砲方となる長崎砲術其外御備向御用取扱・高木道之助(忠大)の屋敷。
5月末頃訪れ、接待を受け、大筒などの武具類を見たりする。 |
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C |
築地(現・築町)の冨観楼=長門屋信蔵の別宅・第三の宿所(6月5日〜)。 |
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D |
丸山花街を見下ろす延年の別荘=最後の宿所(6月某日〜)。 |
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E |
夫婦川郷(現・夫婦川町11−1)の春徳寺墓地=穎川家墓地
7月15日盂蘭盆会に、おそらく延年らに随行して、夕暮れに行き燈籠を点灯する。 |

春徳寺 |
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F |
大波止=同日夜遅くに行き、精霊流しを観て、暁の鶏鳴を聞く。 |
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G |
長崎港=8月1日頃、延年の案内で、舟にマグロの刺身と清酒を載せて乗り出し、オランダ船2艘を見る。ひそかに出島に上陸したのかも知れない。オランダ通詞の吉雄権之助を介して、商館医ハーヘンからナポレオンの話などを聴いている。
また、8月16日には、佐賀藩士・古賀穀堂や唐通事・遊龍彦次郎(梅泉)とともに同じく舟を浮かべて名月の観賞をしている。 |

長崎港 |
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H |
伊良林郷(現・寺町64)の興福寺=8月某日、おそらくここと思われる寺院で、唐船で来航した唐商人の楊兆元(西亭)および陸如金(三品)と筆談をする。 |

興福寺 |
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I |
金刀比羅山=8月10日祭礼日に烈風のなか頴川の命で登山している。 |
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J |
館内(現・館内町)の唐人屋敷=8月16日西亭の招待で宴席に与かる。 |

唐人屋敷 |
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K |
丸山(現・丸山町2−1)の丸山花月楼=8月某日、唐人番組頭・水野勝太郎(媚山)の仲介で唐商人で文化人として高名な江芸閣が贔屓(ひいき)とする遊女・袖笑を聘(よ)んで歓談している。料亭花月には山陽の「養花山舘」(花月の別称)の墨蹟などゆかりの史料が残され、展示されている。
山陽来崎の第一目的は江芸閣と逢って詩文の交換をすることであったが、それは果たせなかった。また、当時花月(引田屋)の主人は、11代山口太郎左衛門増茂(俳号・拝之)という俳人で、同じ詩人として山陽を歓待した。 |

料亭 花月 |
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L |
唐八景=某日、古賀穀堂らと登っている。 |

唐八景 |
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M |
中川郷鳴滝(現・鳴滝1丁目4県立鳴滝高校敷地内)の唐通事・彭城(さかき)仁左衛門(東作)の彭城本家別宅=某日
、東作の親族である梅泉が案内している。崇福寺墓地にある東作の墓碑に刻まれた墓誌は山陽の撰として有名。 |
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N |
中島川傍(現・桶屋町33)の光永寺=某日高木道之助の弟で同寺住職・圓備(後に圓蔵)に招かれ歓待される。 |

光永寺 |
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O |
佐賀藩諫早領矢上村(現・矢上町9−6)の牟田家=長崎から帰途ここに立ち寄り一泊して、船出したとされるが、乗船地は茂木という説が一般的である。その後有名な「泊天草洋」が生まれるのである。 |
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来年・平成30(2018)年は、頼山陽が長崎に来遊して二百年の節目の年にあたる。そのころ花月あたりを主要舞台にして何らかの記念行事(展覧会・講演会・シンポジウム・史跡めぐり・詩吟会など)が出来ないものだろうか。
その場合、山陽が前後に通過・滞在した福岡県(博多)、佐賀県(佐賀城下)、熊本県(熊本城下)・鹿児島県(鹿児島城下)・大分県(耶馬溪・竹田)といったところと連携すれば面白い企画ができるのではなかろうか。県下の足跡地である大村市(大村城下)、長与町(斉藤郷舟津)、島原市(島原城下)、雲仙市(小浜)の参画はいうまでもない。 |
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