第六回/来年・平成29年(2017)は坂本龍馬没150年

 

 幕末の英雄・坂本龍馬が京都で暗殺されたのは、慶応3年(1867)11月15日のこと、したがって、来年・平成29年(2017)は、没150年、最後に長崎を離れてからも150年である。思えば、NHKの大河ドラマ「龍馬伝」が放映されて、長崎、高知をはじめ全国が「龍馬ブーム」に沸いた平成22年(2010)から早や6年が経過した。そこで、あらためて、長崎市内の龍馬の足跡を想い返してみよう。

 
@長崎街道(古賀〜本河内〜新大工町)
 龍馬が最初に長崎を訪れたのは、元治元年(1864)2月23日で、幕命で出張する勝海舟(1823〜99)に随行して陸路、長崎に入っている。前日 、払暁(ふつぎょう)島原に上陸、愛野で一泊、夕方遅く到着している。その前、熊本では横井小楠(1809〜69)の家を訪問している。

 
A福済寺(筑後町)
 それから4月4日までの長崎滞在中、海舟が黄檗宗寺院の福済寺に宿泊しているのは確かであるが、龍馬の動向は不明である。
 これに先立つ海軍伝習生時代の海舟の宿舎は、すぐ近くにある日蓮宗寺院の本蓮寺(大乗院)であり、ここの墓域には、慶応4年(1868)薩摩藩士を誤殺した責を負って切腹した海援隊士・澤村惣之丞(1843〜68)の墓がある。
 
B長崎港
 その後、龍馬はたびたび長崎に出入りしているが、それはすべて海路である。薩摩船で西郷隆盛(1827〜77)・吉井友実(1828〜91)らと同行したときは、上陸せず、長崎港の船上から長崎の街を眺めるだけのこともあったらしい。
 
C薩摩藩屋敷跡(銅座町)
 薩摩藩との関係が深かった龍馬のことである。はっきりした記録はないが、新地蔵地(現・新地中華街)に近い、薩摩藩屋敷(現在、三菱UFJ信託銀行長崎支店敷地)にはしばしば足を運んでいたはずである。

 
D小曽根邸跡(万才町)
 亀山社中の幹部は、当時の本博多町(現・万才町)にあった小曾根邸に滞在していた。龍馬の留守を預かっていた近藤長次郎が、後述のように、この屋敷の旧坂の上天満宮に近い「梅の間」で切腹している。現在、ここ長崎法務局合同庁舎敷地には「小曽根邸の跡」と記す石碑と龍馬の妻・お龍が月琴を抱いて座る銅像が置かれている。
 なお、小曾根家当主の乾堂(1828〜85)が後述の小曾根町に移ってからは、海援隊にも加わった末弟の英四郎(1840〜90)の住居となっていた。

 
E亀山社中跡(伊良林2丁目)
 平成21年(2009)から長崎市立亀山社中記念館となっていて、最近、開館時からの来館者が百万人を突破した。かつてここにあった地元民間団体「亀山社中ば活かす会」の運営する亀山社中資料展示場が近くの民家を借りて継続しており、土・日曜・祝日には開館している。その他の日であっても事前に連絡すれば見学できるようだ。
 風頭山頂には、平成元年(1989)建立の長崎在住彫刻家・山崎和國氏作「龍馬銅像」が長崎港、世界の海に視線を向けている。また、龍馬が楠正成ゆかりの神社として尊崇・参詣した若宮稲荷神社の境内や途中道筋には小型の龍馬銅像が置かれている。
 
F料亭「花月」(丸山町)
 長崎県指定史跡で元遊女屋「引田屋」の花月には集古館という展示場 があって龍馬自筆の長崎奉行所への抗議文等、同人ゆかりの品が並べ られている。また、近くの丸山公園には、平成21年(2009)、地元の画家・小崎侃氏作の坂本龍馬像が建立された。
 

 
G近藤長次郎の墓(寺町・晧台寺後山)
 かつて近藤長次郎の墓は晧台寺後山の高島家墓地などのある上部にあって、今年が150周年となる慶応2年(1866)1月14日の長次郎切腹時にはいなかった龍馬が、同年3月8日そこに参詣している。現在は中腹にある小曾根家墓地に移されていて、墓石に刻む、切腹した部屋にちなんだ「梅花書屋氏墓」の文字は龍馬の筆とされている。偶々であるが、長次郎切腹と同年同月同日に、高島秋帆(1798〜1866)も江戸で亡くなっており、その両者の墓地や墓碑まで隣接していたのである。
 なお、近藤長次郎については、平成23年(2011)その子孫に当たる北九州市在住の川辺篤次郎氏によって、頭部のレリーフの付いた辞世の和歌が刻まれた顕彰碑が中島川公園の眼鏡橋付近に建立された。
 
H小曽根邸跡(小曽根町)
 安政6年(1859)から万延元年(1860)にかけて小曾根乾堂(1828〜85)の父・六左衛門(1800〜63)が、第一次居留地造成(東山手側)と並行して大浦南部の海岸を埋築して造成した小曾根築地にあった。慶応2年(1866)6月5日龍馬とお龍が訪れ、お龍は翌年2月8日頃まで滞在した。この間、龍馬も長崎にいるときは主にここで寝泊りしたと思われる。
 
I旧グラバー住宅(南山手町)
 文久3年(1863)建築のグラバー住宅にしばしば龍馬が訪れたことは間違いない。しかし、グラバー(1838〜1911)側の記録には、不思議なことにあまり出てこないことから、いろいろな憶測が生まれている。国の重要文化財に指定され「明治日本の産業革命遺産」の構成資産である。

 
J上野撮影局跡(伊勢町)
 上野撮影局は、文久2年(1862)に創設されているが、元治元年(1864)から慶応3年(1897)の間に、龍馬は2度ばかり、当時の新大工町(現・伊勢町)にあった上野彦馬(1838〜1904)の写真館を訪れて写真機の前に立っているようだ。これらを含めて目下、6種類の龍馬の写真が確認されている。
 銀屋町の彦馬生誕の地には龍馬と彦馬が並んで立つ石像が、眼鏡橋付近から移されて置かれている。

 
K料亭清風亭跡(万屋町)
 慶応3年(1867)正月13日頃、龍馬がそれまで政敵であった土佐藩の後藤象二郎(1838〜97)に当時の榎津町(現・万屋町)にあった料亭清風亭に招かれ会談、意気投合して、亀山社中が土佐藩傘下の海援隊に生まれ変わった。龍馬の脱藩の罪も赦され、以後二人は協力して「大政奉還」への政治活動を展開してゆく。現在、同所跡には説明板が設置されている。

 
L土佐商会跡(浜町)
 土佐藩開成館貨殖局長崎出張所(長崎土佐商会)は慶応2年(1866)11月象二郎によって西浜町に開設され、三菱創業者・岩崎弥太郎(1834〜85)もここで働いている。海援隊の会計はここが扱っていたので、隊長の龍馬がしばしば訪れたのはいうまでもない。
現在、同所跡には「土佐商会跡」と記す石碑と土佐商会の持船「夕顔丸」のミニ銅製模型が置かれている。

 
M聖福寺(玉園町)
 慶応3年(1867)4月23日瀬戸内海で起きた紀州藩船との衝突による「いろは丸沈没事件」の賠償談判は、終始龍馬も出席して最終的に黄檗宗寺院の聖福寺で決着を見た。紀州藩・土佐藩の打上げ会が近くにあった迎陽亭で行われたが、龍馬は出席していない。
 最近、聖福寺の大雄宝殿・天王殿・山門・鐘楼が一括して国の重要文化財に指定された。
 
N料亭玉川(八幡町)
 慶応3年(1867)8月20日龍馬は中島川の大井出橋近くにあった料亭玉川で長崎に来ていた長州藩の桂小五郎(木戸孝允・1833〜77)を土佐藩大監察の佐々木三四郎(高行・1830〜1910)に引き合わせている。龍馬は、暗殺を用心してか、このほか本博多町の内田屋、恵美須町の広瀬屋などいくつもの料亭・宿所を利用しているようだ。
 現在、同所跡には、友愛八幡町保育園がある。
 
O長崎奉行所西役所(江戸町)
 慶応3年(1867)7月6日発生した英軍艦イカルス号水夫殺害事件で海援隊士に嫌疑がかかり、龍馬は佐々木とともに事件処理のために、この西役所に出頭している。それに引続き9月11日に起こった実際の土佐藩士による外人傷害事件でも同様である。
 長崎奉行所立山役所については、龍馬が出入りした明確な記録はないが、前記、勝海舟に随行して訪れた可能性がある。その跡地に一部奉行所建物を復元して平成18年(2006)開館した長崎歴史文化博物館のロビーには、6年前の同館で開催された特別展「龍馬伝」の名残りとして、風頭公園にある龍馬像の原型がいまも置かれている。
 
 

 
 

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