第四回/「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を詠んだ短歌

 

 平成27年7月5日、長崎をはじめとする「明治日本の産業革命遺産」が、ドイツのボンで開催されたユネスコ世界遺産委員会による決定を受け、正式に世界遺産に登録された。これに続いて、来年、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が世界遺産 に登録されることが期待されるところである。
 その構成資産に限らず、広く長崎の教会等については、信者のみならず、一般文化人がその風情や歴史に注目し、絵画や文学などの芸術作品の対象に取り上げているが、このうち、短歌の分野について、その一端を紹介してみたい。

 
(1)大浦天主堂
芥川龍之介(1892〜1927・小説家)は、大正8年(1919)大浦天主堂を訪れ、ガラシー神父と小半日話し込んでいる。
「大浦に日本の聖母の寺あり」と題して
  天雲の光まほしも日本の聖母の御寺今日見つるかも
   
直木三十五(1891〜1934・大衆小説家)は、昭和7年(1932)上海往復途中、長崎に寄港している。
「憶芥川龍之介」と題する5首のうち
  十年前天主堂にてざんげせる女ありしがいかになりけむ
写真提供:長崎市


 

 
(2)浦上天主堂

写真提供:長崎市
佐佐木信綱(1872〜1963・歌人・万葉研究家)は、昭和13年(1938)浦上天主堂の付属館に展示されていた信者が自らを打つため使った鞭を見て感銘する。
「麻縄の鞭」と題する一連の作品のうち
  苦行人この麻縄の鞭とりあげ血ぶくまで我をうちけむか我を
   
斉藤茂吉(1882〜1953・歌人・長崎医専教授)は、大正6年(1917)から3年余長崎で勤務。
同8年(1919)「九月十日。天主堂」と題して
  浦上天主堂無原罪サンタマリアの殿堂あるひは単純に御堂とぞいふ
   
九条武子(1887〜1928・歌人・仏教婦人連合会長)は、大正14年(1925)来崎時に浦上天主堂を訪ねている。
 
  青葉がくり天主教堂の文字白うひるを鐘鳴る長崎の町
 
(3)中町天主堂
斉藤茂吉は、同天主堂に近い東中町(現・上町)に住んでいた。
大正8年「九月二日。日ごろ独りゐを寂しむ」と題して
  中町の天主堂の鐘ちかく聞き二たびの夏過ぎむとすらし
   
藤崎杏水(1891〜1953・内科医)は、一時大井手町で開業していた。
「長崎夕景」と題して、第一歌集「生命線」にある作品。
  唐寺や日本の寺や天主堂やねいろ異る鐘鳴りにけり

写真提供:長崎市
 
(4)原城跡
撮影者:日暮雄一氏
北原白秋(1885〜1942・詩人・歌人)は、明治40年(1907)与謝野寛・吉井 勇らを案内する「五足の靴」の旅行で、長崎・島原・天草などを訪れている。
  日のほてる枇杷の果食めばおもほゆる嶋原の乱のま夏矢さけび
   
新村 出(1876〜1967・言語学者・「広辞苑」編者)は、昭和2年(1927)長崎に来航し、紀行文「南国巡礼」を発表、長崎旅行ブームを呼ぶ。
このときの作品。
  痛ましき原の古城に来て見れば一もと咲ける白百合の花
 
(5)天草
吉井 勇(1886〜1960・歌人・劇作家・小説家)は、前記「五足の靴」はじめ8回も長崎を訪ねている。
大正9年(1920)来崎時を機に詠んだ「長崎百首」の1首。
  白秋とともに泊まりし天草の大江の宿は伴天連の宿
   
新村 出、昭和20年(1945)の歌集「重山集」にある「伊曾保物語天草本」4首のうち                
  天草の南蛮てらの沙弥たちの摺りてつたへし伊曾保ものがたり
 

(注:「伊曾保」は「イソップ」のこと)

写真提供:長崎県

 

 

長崎史談会相談役 宮川雅一

 

 

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