長崎街道その四 番所橋 〜長崎市と諫早市の市境
長崎街道は江戸時代に整備された脇街道とよばれる道の一つです 豊前国小倉(福岡県北九州市小倉北区)と肥前国長崎(長崎県長崎市)を結ぶ路線で道程は57里(約228km)に及びます。
長崎今昔では長崎市の新大工を起点として諫早市との境までを4回に亘って辿っていきます。古に想いを馳せて、途中寄り道をしながら、道中を紹介いたします。 今回は、その最終回です。

 


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前回の終点、 番所跡からほどなく行くと諫早領役屋敷跡があります。

諫早領役屋敷跡
役屋敷は長崎開港につれ、佐賀藩主、諫早藩主、肥後藩主との報告、連絡、紛争、願書の処理などが頻繁したために諫早領地の西端であるこの地に設けられたものです。
往時には3名で執務し、この付近の民事、刑事等のことから願書、その他一切の仕事を専決処理しました。
敷地には武道場や武道稽古場、子供の手踊り等の稽古場もあったといわれています。

   
国道34号線と並行して一方通行の道路を矢上小学校方面に進んでいきます。
 
   
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本陣と脇本陣
国道を隔てて現在の長崎自動車学校の所に矢上宿の本陣がありました。佐賀藩内では御茶屋とか上使屋といい、長崎警備のため往来する大名や幕府関係者の宿泊や休憩所でした。
広大な敷地に豪壮な建物があり、便所には漆塗りが施されていました。しかしながら、明治はじめごろ民間に払下げ、解体されました。ここ矢上小学校付近には脇本陣があり、人馬継ぎ所などの宿の施設がありました。
   
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矢上小学校を過ぎてすぐのところに、進行方向で同じ左手を少し入ったところに巨木が2本みえてきます。

矢上八幡神社の大クス
クスノキは暖地性の樹種で、我が国では関東地方より西に広く自生しています。
ここのクスノキは、北側のものは胸高幹囲10メートルを超え、南側も5.3メートルある県下有数のクスの巨木です。
樹齢は不明ですが、この神社が寛文7年(1667年)の建立、それ以前から 、このクスノキはあると言われています。

   
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大クスからほどなく、矢上神社が見えてきます。

矢上神社-矢上宿跡
長崎街道25宿のうち、長崎から数えて二番目の宿場町(最初は日見宿)です。佐賀の鍋島藩の配下である諫早領の支配地で、長崎奉行支配の日見村と境を接していたので、矢上の宿には鍋島藩の番所がありました。
そのため、矢上宿には番所役人が居て、旅宿もあり、馬や駕篭(かご)人足などが常時用意され、鍛冶屋、造り酒屋などの各種のお店などがあり、矢上の宿は近隣の村々の中心地として栄えていました。

   
国道34号線を横切るようにして、道なりに長崎街道は続きます。

この先は川に突き当たりますが、街道の名残はなくなっていて、川を横切 ようにして街道を進んでいきます。
 

 

   
川を横切り、街道としての道が残っていないところを進み、ようやく現存している道に入っていきます。

しばらくすると住宅団地の『彩が丘』の入り口の方へ登り、 団地内へは入らずに、左へ曲がります。
この辺りは起伏のある狭い道が続きます。

 

   
街道の名残 のある右手に崖の続く細い道を、しばらく歩きます。
 

 

   
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楠川(くすがわ)の渡し-役行者(えんのぎょうじゃ)神社
八郎川の上流に楠川(古賀川・樟木川)と呼ばれる支流があり、旧長崎街道はここ役行者神社付近から、この川の飛び石を渡って川向いを通っていました。
かつては楠川のそばの古賀村と矢上村の境に一本の大楠があり、人々に親しまれていました。
役行者神社の「役の行者」とは「役(やく)の小角(おづの)」という奈良時代頃の人で、奈良の葛城山で荒行を積み、吉野の金峰山で霊感を修得して呪力を身に付けたといわれ、後に山岳信仰が盛んになると、修験者の祖師として信仰されるようになりました。

 

   
街道らしい道がまた、しばらく続きます。
川沿いの農道を過ぎていくとキリシタン殉教の碑があります。そして石垣が、その街道の名残をみせている古賀地区。

古賀地区では、キリスト教の伝来以降信仰が盛んになり、ルイス・フロイス著の『日本史』によると、文禄2年(1593年)頃には全住民がキリシタンであったとされています。

 

   
古賀地区の狭い道を過ぎると信号のない交差点に差し掛かります。
街道なりにゆるいカーブの道を進みます。
しばらくすると国道34号線と並行して(諫早方面に向って右側を)街道は続きます。
 
   
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国道34号線に並行したまま進んでいきますと右手に藤棚が見えてきます。国道の信号機の名称も『藤棚』と表記されています。

古賀の藤棚
長崎から四里七町(16.3km)、諫早から三里十八町(13.6km)の距離で、郷土人形として有名な古賀人形の小川家 が中里町のこの地にあります。
家の前には大きな藤棚があり名所にもなっています。
江戸時代にも、長崎街道を通る諸大名や旅人たちの休憩所となった茶屋です。

   
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藤棚を過ぎると、高速道路の下を二回、潜り抜けた先が長崎市と諫早市の市境になります。特集『長崎街道』はここで終了いたします。

長崎街道は、この先、福岡は小倉まで続きます。

   
   
 

長崎今昔としての『長崎街道』の紹介は今回で終了です
(出典:長崎市設置の案内版等)

   

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