長崎街道その三 日見峠 〜番所橋
長崎街道は江戸時代に整備された脇街道とよばれる道の一つです 豊前国小倉(福岡県北九州市小倉北区)と肥前国長崎(長崎県長崎市)を結ぶ路線で道程は57里(約228km)に及びます。
長崎今昔では長崎市の新大工を起点として諫早市との境までを4回に亘って辿っていきます。古に想いを馳せて、途中寄り道をしながら、道中を紹介いたします。

 


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前回の終点、日見峠を降りていくと、ほどなく芒塚句碑が見えます。長崎街道を歩く皆様のちょっとした休憩の場所にもなっています。
   
芒塚句碑(三基)
向井去来(1651〜1704年)の句碑で天明4年(1784年)に 長崎の俳人達によって建立されました。去来[名・兼時、 字・元淵(げんえん)、通称・平次郎]は、儒医向井元升の 二男として長崎の後興善町(現 長崎市立図書館敷地内)に生 まれました。 8歳の時に父とともに京都に移住、30代半ばにして松尾 芭蕉の門人となり、蕉門十哲の一人と称されました。 元禄2年(1689年)に一時帰郷、長崎に芭蕉俳諧を伝えま した。中央の去来「句碑」正面は、去来が長崎を離れるに 際し、この地で見送りの人達に対して詠んだ「君が手もま じるなるべし花薄(すすき) 去来」、裏面に「天明四甲辰年 三月吉旦 發企玉渕 崎陽蕉門末流其等謹建 石工正廣」と刻まれています。 左側の「漢詩の碑」は去来の紹介や漢詩が刻まれています。 右側の「献句の碑」は去来を顕彰して安政3年(1856年)に 建立したものと言われています。
平成13年2月26日、県の有形文化財に指定されています。
   
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日見トンネルの上を横切るかたちで長崎街道は続きます。新日見トンネル(平成11年完成)ができるまでは、この日見トンネルが峠越えの苦難を解消する本道でした。
   
日見トンネルに少しだけ、寄り道します。 長崎県が大正13年に着工し、2ヶ年で完成。全長642m、 幅員7.4mは当時日本最大規模のトンネルでした。昭和に入って自動車が普及する中、長崎に通じる唯一の動脈 として大きな役割を果たしてきました。 坑口のデザインは大正期の様式を色濃く残しており、平成13年度に国の有形文化財として登録されました。
   
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日見トンネル上を通り過ぎると曲がりくねった道に差し掛かります。なるほどこんなにクネクネとした峠の道を降りて いたのか、と思いきや街道はその道に沿ってではなく、今は 建物が建っている場所を、ゆるいカーブを描きながら県道 116号線(旧 国道34号線)にはいっていきます。
   
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県道116号線から、長崎自動車道の下をくぐるようにして、階段を下りていく道が長崎街道のルートです。

 

   
長崎自動車道 芒塚I.C.の入口(出口)がループ状に囲み、様々な道路が入り組み、この辺りの風景は様変わりしてきま した。 ここから峠は一気に下り坂になっていきます。

 

   
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街道の名残を偲ばせる石垣が右手に続き、風情を感じる道が続いていきます。

 

   
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平坦な道に差し掛かりますと右手に薬師堂が見えてきました。 歯痛(はつつき)観音-岩這薬師堂 この観音像は、片手に頬をあずけ、もの思いにふけっている ような姿が、あたかも歯の痛みをおさえているように見えるため、この観音像に願いをかけると歯の痛みが治るといわれ ています。また、お堂の崖を掘った穴には地蔵菩薩が祀られ ています。 付近には馬川と呼ばれる川が流れています。馬川の由来は、常に流水があり、人も馬も、この流れに足をつけて一服し、活力を入れ、日見峠の急な坂を登るのに備えたからといわれており、旅人にとって大切な川でした。

 

   
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右手は山間が続き、その手前は住宅街になっていますが、こういった少し小高い丘になっているために、石垣の上に建つ 家々が続きます。

 

   
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左に曲がる道に差し掛かりました。 いよいよ日見宿まで、あと少しのところまできました。 ここからは真っ直ぐ続く道を下っていきます。
 
   
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日見の宿跡に到着です。残念ながら石碑が建てられているだけで名残は今はありません。 日見宿は、江戸時代、長崎街道の道程で長崎から2里、矢上 まで1里の行程とされています。(1里は約4km) 宿場には人夫165人、馬20頭が備えられていました。日見は戦国時代末期は有馬領でしたが、のちに天領(江戸幕府直轄の領)となり、その後、島原藩の領を経て、明和5年 (1768年)以降は長崎代官支配とされました。幕末には戸数が287軒、人口は1,943人で、庄屋、年寄、百姓代、問屋が置かれたほか、網場には浦見番がそれぞれ置 かれました。
   
   
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日見宿を過ぎると、また上り坂に差し掛かりました。ここも小さな峠越えという感じです。
   
   
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上り坂を終えると国道34号線に出ます。右手にはゆったりとした休憩もできそうな木陰のスペースがあります。ここに腹切坂のいわれが記された石碑があります。
   
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国道34号線を横切る感じで、左側へ。また上り坂に入っていきます。この上りの途中、本来の腹切坂があった場所になります。

 

   
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上りきった場所に到着しました。道路は整備され、車も行き交う目立つ場所に 「領境石標(りょうざかいせきひょう)」の石碑があります。
   
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しばらく街道の名残らしい道が続きます。 緑も多く、木々が道のほうに膨らんでいます。 江戸時代、行き来された人々も比較的、楽だったのではないかと思うゆるやかな勾配です。
   
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少しの間、国道沿いに戻り、また現在では脇道になった方向に進んでいきます。 そのすぐ左手に神社が見えてきます。 M之大王神社 M之大王神社は矢上神社の分社であり、もとはM之大王権現 と称していました。矢上神社は 江戸時代には大王社または大王権現と呼ばれていましたが、明治5年(1872年)に現在の社号に改称しました。創建当初、この付近は海であったといわれていますが、明和 (1760)年代頃に埋め立てられていたようです。長崎街道と して利用されていたこの道は、明治11年(1878年)に 明治新道として拡幅されました。 この神社では、明治14年(1881年)頃から数年の間、神輿の御遷都(ごせんと)が行われていたという記録があります。
現在では地元の東望自治会の人々によって大切に祀られています。
   
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神社を後にして直進、番所橋の近くまできました。
   
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番所橋は天保9年(1838年)に佐賀藩により架設されま した。慶応3年(1867年)の洪水により流出しましたが、 この石材を使って明治初期に再架設、そして大正12年 (1923年)に鉄筋コンクリートで架設され、現在の橋は昭 和61年(1986年)の架設の際、由緒があることをあらわすため擬宝珠(ぎぼし)※の親柱になっています。
※擬宝珠 伝統的な建築物の装飾で橋や神社、寺院の階段等の柱の上に 設けられている飾りです。
   
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今回の終点、矢上番所跡に到着です。 ここも残念ながら名残はなく石碑が建てられています。 矢上番所は長崎街道の要所で平屋瓦葺きの建物と門があり、 弓矢・槍・鉄砲等を置くなど、役人が往来者の警備や取り締 まりを行っていました。江戸初期の矢上番所は矢上宿のはずれ、田ノ浦川畔にありました。矢上宿は長崎の東の玄関口で、長崎街道と島原街道の合流点でもあります。
   
 

今回はここまで。
次回は最終回、矢上番所跡から長崎市と諫早市の境界を目指します。
(出典:長崎市設置の案内版等)

   

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