長崎街道その二 蛍茶屋〜日見峠
長崎街道は江戸時代に整備された脇街道とよばれる道の一つです 豊前国小倉(福岡県北九州市小倉北区)と肥前国長崎(長崎県長崎市)を結ぶ路線で道程は57里(約228km)に及びます。
長崎今昔では長崎市の新大工を起点として諫早市との境までを4回に亘って辿っていきます。古に想いを馳せて、途中寄り道をしながら、道中を紹介いたします。
 


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前回、到達した蛍茶屋から出発です。 ここから日見峠に向けて、ほとんど登り坂になります。 当時の人々は道中、どういったところで休憩されたのか、 それとも、現代人とは違い、タフでかなりのスピードで 峠を目指したのか?
体験してみます。
   
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長崎街道の道を辿りますと、現在の国道34号線の下を潜る地下道で反対側の歩道へと向かいます。 ここからはしばらく、真っ直ぐ で、ゆるやかな坂道です。
   
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上記2の写真の左手に渡鳥塚というものが見えてきました。
渡鳥塚(句碑) 平成10年4月30日、市の有形文化財に指定されました。文化10(1813)年、長崎の俳人平田祥禾(しょうか)を 始めとして、当時の蕉門俳人が、芭蕉翁120回忌、 去来110回忌に当り、馬町墓地に建立したもので、芭蕉俳諧 の祖 松尾芭蕉の句「めにかかる雲やしばしのわたり鳥 翁」 (建立当時のベストセラー「芭蕉句選拾遺」所収句)と 蕉門俳人で長崎出身の向井去来の句「故さとも今はかり寝や 渡りどり 落柿舎(らくししゃ)」を表面及び右面に刻み、裏面に「文化十とせの夏みな月 蕉門の師弟こころを合わせて 建けるよしを祥禾しるす」と刻んで有ります。長崎の俳諧史の歴史の中でも芭蕉塚は数本建立されましたが、芭蕉・去来の指定句碑はなく、文学的にも大きな価値を持つものとされています。
   
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渡鳥塚を後にして直進していきます。 左記、写真の3は街道の目印、各所に立てられていて道標となっています。
   
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しばらく曲がりくねった狭い道を行くと右手に墓碑が見えてきます。 旧長崎街道のうち、この辺りから日見トンネルの西口までの一帯は、明治時代以降、相次いで水源地や国道の建設・改修が行われたため、当時の道を辿ることができなくなってきます。 しかし、当時の街道沿いにあった供養塔や墓碑などの多くは、こうして移設され、今なお残されています。ここには江戸時代の将棋の名手 大橋宗銀の墓が、階段下には市内最大の豪潮(※)塔である本河内宝篋印塔【ほんごうち ほうきょういんとう】(市指定有形文化財)が建っています。このほか一の瀬無縁塔(市指定有形文化財)、青銅塔【からか ねとう】(市指定有形文化財)などの供養塔や、第三代横綱 丸山権太左衛門らが眠る力士墓、囲碁の名手 南京坊義圓の墓など、長崎来訪中に亡くなった人たちの墓碑があります。 街道を歩いた先人たちが、道中で供養をしていた姿が偲ばれ ます。
(※)豪潮は江戸時代の僧、全国に二千基の塔を建てたといわれています。
   
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国道の方に戻るようにして進みます。 ここから先が、道路整備等で街道としては現存していません。目を閉じて、想像で進まなければならない道中です。歩道や道路になっている部分が街道になります。※本当に目を閉じてはダメですよ。
左記写真3の国道の左手、水源地を沿うように進みます。
同じく写真4、国道の下を潜り、国道と交差するように道は続きます。

 

   
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少しずつ長崎街道らしい道に入ってきました。 水源地を左手に見ながら舗装はされているものの、道が狭くなり、木々も立派なものが増えてきます。木々の大きさから年輪を感じ、時代の流れ、蓄積に思いが募ります。

 

   
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石垣も立派で風情を感じる道になってきました。 しかし、ずっと上り坂。舗装されているからいいのですが、街道を行き来した江戸時代の人たちは、本当に大変だったことでしょう。
写真4 いよいよ日見峠の登り口に差し掛かりました。歩道橋を渡っていきます。

 

   
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歩道橋を渡りきると上り坂が続きます。写真3は写真2の中央にあります道標の拡大です。写真4にも、矢印型の道標が立てられ、左へ曲がるという、わかりやすく街道を案内してくれます。
まだまだ続く坂道、既に一度、峠入口で休憩をしてしまいました。

 

   
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後々、建てられたと思しき『日見峠路』という石碑も趣が有ります。

 

   
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日見峠では、江戸時代から昭和初期まで、毎年旧暦の八月一日、すなわち八朔(はっさく)の日拝みをするという習慣があり、多くの人で賑わったと伝えられています。日を見る峠ということで日見と地名がつけられたと伝えられています。
また別の由来として天正6(1578)年、長崎甚左衛門と深堀純賢が当地で戦った際、深堀氏側は大軍勢で押し寄せていることを装って、さかんに火を焚いてみせたといわれており、火を見る峠が火見と称し、後に日見と改めたという説もあります。
長崎奉行の送迎の際は、地役人は立山奉行所から、この峠まで出迎え、見送りするのが慣例でした。
   
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日見峠関所跡-峠の関所に到着です。
万延元(1860)年、3月3日、大老 井伊直弼が水戸藩の浪士らに襲撃された『桜田門外の変』の後、倒幕の機運が一気に高まっていた幕末の混乱期、江戸幕府は往来する人々を監視するために当時の長崎の出入口にあたる、日見・西山・浦上・茂木の4箇所に関所を設けました。文久3(1863)年に設置された日見峠関所は島原藩主などが防備にあたっていましたが、明治維新に伴い、明治2(1869)年に閉じられました。
跡地は日見新道(明治新道)建設の際に、その一部が切り通しの部分にかかり、敷地の半分ほどが削られました。
   
 

今回はここまで。次回は日見峠を下りながら番所跡までを目指します 。
(出典:長崎市設置の案内版等)

   

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