長崎街道 その一 新大工〜蛍茶屋
長崎街道は江戸時代に整備された脇街道とよばれる道の一つです 豊前国小倉(福岡県北九州市小倉北区)と肥前国長崎(長崎県長崎市)を結ぶ路線で道程は57里(約228km)に及びます。
長崎今昔では長崎市の新大工を起点として諫早市との境までを4回に亘って辿っていきます。古に想いを馳せて、途中寄り道をしながら、道中を紹介いたします。
 

 

 
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起点は、新大工シーボルト通りの交差点にあたる場所。 写真の向かって右側には『長崎街道ここにはじまる』という 石碑が建っています。 それでは出発です。
   
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ちょっと左にそれて寄り道。 春徳寺に登る途中に趣のある石碑が。
『たばこ栽培発祥の地』とあります。 長崎には、このように発祥の地という石碑が多くあります。 これは、その一つで、日本ではじめて煙草を栽培したのが この地だと言われています。 たばこは慶長年間(1596〜1615年)に伝来し、 『長崎古今集覧』によりますと、当時、この地にあった トードス・オス・サントス教会近くで栽培されたのだそうです。 その後の寛永7(1630)年、春徳寺が開創(最初は岩原郷 現 立山町、その後1651年、現在の地に移転)されたあとも、 栽培は続けられ、地名を冠した『長崎タバコ』『桜馬場タバコ』 として長崎名産の一つになり、江戸や大阪まで広く親しまれたそうです。路地に入って見ると様々な歴史の発見があります。
   
通りに面しての立派な石垣群、これは桜馬場中学校です。
ここから、またちょっとだけ忘れてはならない場所に 寄り道の為、左へ。

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国指定史跡になる『シーボルト宅跡』です。文政6(1823)年に出島和蘭(オランダ)商館医として来日 したシーボルトは、翌年鳴滝の地に塾を開き、患者の診療や 門弟に対する教育活動、日本の研究活動などを行いました。 その一方で動物や植物をはじめとする日本のあらゆるもの を対象として科学的に調査・研究を行い、後年その成果をまとめ、ヨーロッパにおいて日本を正しく紹介することに 努めました。
また開国後の安政6(1859)年、再来日したシーボルトは、 この地に住み、再び鳴滝を拠点として日本の研究を継続しま した。この地は、わが国における西洋近代科学発祥の地であるとともに、日本が広くヨーロッパに紹介された研究活動の拠点であり、近代化ならびに国際交流に大きな役割を果たした場所です。
   
さて、長崎街道に戻りましょう。 しばらくするとトロトロ坂という名前のついたなだらかな 坂が見えてきます。手前にある短い橋は古橋【ふるはし】です。古い石畳の道、江戸の往還の旅人たちのワラジの跡をも しのばせる貴重な道です。
   
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古橋【ふるはし】(中川橋【なかごばし】)は市の指定有形文化財です。鳴滝川に架かるこの石橋は、桜馬場から一の瀬(現 蛍茶屋)に通ずる唯一の橋で、長崎の玄関口にもあたっていたそうです。 承応3(1654)年、唐通事の林守壂(リンシュデン)が私費 を投じて架けたもので、眼鏡橋から数えて6番目に架けら れた石橋です。崩れたり、流されたりという記録はありませんが、現在は勾欄や親柱等をそのまま埋め込んで、約1mかさ 上げがしてあります。 全長7.6m、幅2.8mと、この水系最小の石橋ですが、側壁石の工法に特徴があり、布石部分の加工に入念な仕事ぶりを 見ることができます。 以前は中川橋と呼ばれていましたが、大正7(1918)年、約30m下流に新しく中川橋が架かり、この橋は古橋と 呼ばれるようになりました。
   
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中川八幡神社の前を横切ります。この神社は正保3(1646)年、幕府の命で長崎に滞在して いた豊後府内(現 大分市)の城主が自国の柞原八幡宮を勧請 (神仏の分霊を他の地に移して祭ること)し開かれました。創建当時は聖福寺の城域内(現 筑後町)にありましたが、寛延元(1748)年、現在地に移転しました。この神社の参道は長崎街道に面しており、旧市街の玄関口にあたっていました。明治14(1881)年に国道が接するに至りました。毎年9月15日には秋の大祭として、子ども相撲大会や奉納おどりが催されており、境内には長崎奉行が寄進した石燈篭や当時の寺社奉行が寄進した御手水が現存しています。
   
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食違(くいちがい)という道。ほぼ直角に道が曲がり、この下の道へと通じているこの場所、以前は、このような道の形態が『食違』と呼ばれ、享和2(1802)年の古地図(肥前長崎図)にも「クイチガイ」 と記載されています。当時からこのように曲がっていたのですね。

 

   

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そのまま国道(新長崎街道)ではなく左に進みます
 

 

 


昭和の歴史が漂う建物沿いを、長崎街道は通り過ぎていきます。

 

 

   
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すると史跡 一の瀬口・蛍茶屋跡になります。現在は電車の終点として、その名の残る『蛍茶屋』、 これは長崎街道の茶屋の名前だったんですね。 歴史に残る多くの偉人も立ち寄ったことでしょう。
   
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文化文政(1804〜1829年)頃、甲斐田市左衛門によって、この地に旅人歓送迎の茶屋が始められました。幕末から明治初期、二代目政吉の頃が最盛期となりました。長崎から矢上までの街道筋、一の瀬橋のたもとにありました。
   
   
   
 

今回はここまで。
次回は蛍茶屋を後にして、今は現存しない道も辿りたいと思います。
そして日見峠を目指します。
(出典:長崎市設置の案内版等)

   

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