第十五回/長崎の教会群とキリスト教関連遺産
今回は世界遺産暫定登録一覧表に登録された長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を紹介します。

 
長崎におけるキリスト教は、波乱の歴史後、奇跡の復活を遂げました。世界遺産の候補「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」は、この歴史を証明しています。
左記はシンボルマークです。

宣教時代
1549年、フランシスコ・ザビエルによって日本に伝えられたキリスト教。
ザビエルは、「東洋の使徒」と讃えられる聖人でした。インド・東南アジア、日本にキリスト教の教えを伝え広めていきました。平戸に上陸したザビエルは布教の困難に立ち向かいながら、ザビエルの意志を受け継いだ宣教師たちとともに布教活動を行いました。
長崎の町の繁栄振りは、さながら「小ローマ」のようだったと伝えられ、教会が数多く建ち、南蛮貿易の中心地として栄えました。

 

 
禁教時代〜二十六聖人の殉教〜
貿易を奨励し布教を認めていた豊臣秀吉でしたがが、1587年(天正15年)、伴天連追放令を出しました。きっかけはサン・フェリペ号事件。フィリピンからメキシコへむかってたスペイン船サン・フェリペ号が、台風で土佐浦戸(高知)に漂着しました。サン・フェリペ号の航海士の「キリスト教布教は世界征服の策だ」という発言に危機感を抱いた秀吉が見せしめのために京都などに住む宣教師ら24人を長崎で処刑することを命じました。京都を出発した宣教師らは途中で2人が加わり、長崎の西坂の丘で、最年少12歳ルドビコ茨木をはじめ全員が磔にされ処刑されました。
 


二十六聖人記念碑(長崎市)

時代は江戸幕府に代わり日本のキリシタンは増え続けました。幕府はキリシタンへの不信感から二度にわたる禁教令を発布し、全国のキリシタン摘発に乗り出しました。二十六人の殉教から25年後、長崎の西坂で再びキリシタンの血が流された「元和(げんな)の大殉教」です。
島原の乱後、江戸幕府は鎖国への道のりを歩みはじめました。
 

 
潜伏時代
キリシタンの町だった長崎は監視が強化されました。1639年、出島のポルトガル人を追放し、その2年後には平戸から出島にオランダ商館を移しました。長崎での貿易はオランダと中国に限りました。長崎港の警備も福岡、佐賀両藩に任せ、外国船の入港を厳しく取り締まりました。
それでも信徒たちは潜伏組織をつくり、洗礼やオラショを伝承し、人里離れた浦々や島にかくれ、信仰を守り続けました。

 

再建復活時代
日本はペリー来航後、鎖国政策をやめ開国となり1864年に落成された大浦天主堂は「日本二十六殉教者教会」と命名されました。大浦天主堂は二十六聖人に捧げられた教会でもあるわけです。
※1953年、国宝に指定されました。
 

 
長崎の教会群は長崎が果たしてきた特権的な役割を抜きにしてこれを語ることはできません。布教から禁教弾圧、潜伏。そして復活という歴史のなかで、まさに長崎を中心に展開してきたといっても過言ではありません。
長崎の教会は歴史的背景をもとより西洋と東洋の融合された建築技法の建造物であり、いまも生き続ける信仰の場所です。
地域住民の生活と精神の拠り所にもなっているのです。
 

 

長崎県ホームページ/長崎から世界遺産を「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」

 

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