第七回/長崎の石碑特集その一−大浦町周辺
今回は長崎の石碑特集として大浦町周辺を取材いたしました。
長崎は歴史の街。それだけに数多くの跡地として石碑が残っています。
今回は大浦町周辺を散策し、住んでいてもなかなか知らない発見を、そして関心を深めていきたいと思います。

 

【わが国ボウリング発祥の地】

長崎しにせ会加盟店でもある四海楼の店舗の前にあるこの石碑はボウリングの発祥の地であることが記されています。日本最古のボウリング場は、わが国最初の英字新聞であり初の近代活版新聞である『ザ・ナガサキ・ショッピング・リスト・アンド・アドバタイザー』に文久元(1861)年6月22日の日付で新装開店の広告が掲載されたインターナショナル・ボウリング・サロンです。
この史実をもとに、昭和47年より6月22日を『ボウリングの日』として制定しました。その後、開港されていた横浜や神戸にも、ボウリングサロンが次々とオープンしました。
横浜では元治元(1864)年5月7日付の英字新聞『ジャパン・ヘラルド』に、横浜開港当時、外国人居留地であった現在の『港が見える丘公園』内にボウリングサロンが開店したという広告が掲載されました。
神戸では明治2(1869)年4月20日、ボウリングレーン付の駐在外国人の会員制クラブ『ユニオンクラブ』が誕生しました。
東京では昭和27(1952)年12月20日に東京・神宮外苑、現在の秩父宮ラグビー場付近に米軍の格納庫を利用し、民間産業施設としては日本初のボウリングセンターがオープンしました。
 

【わが国鉄道発祥の地】

長崎市民病院の前にあるこの石碑は鉄道発祥の地と記されています。
慶応元(1865)年、英国人貿易商トーマス・グラバーは、日本で初めて英国製の蒸気機関車アイアン・デューク(鉄の公爵)号をここから松ヶ枝橋の方向にレールを敷いて走らせたそうです。集まった人々は驚きの歓声を上げて見物していました。
この試走は日本近代化の牽引車になりました。

 

長崎税関の前身
左記の図は埋め立て以前の幕末の大浦居留地です。
Bは現在の海星高校の所、Aは現在の活水大学へ行く切り通しの坂(観光地として有名なオランダ坂のある場所)です。まずこの場所に湊会所が置かれます。これが現在の出島町にある長崎税関の前身です。

湊会所跡
歴史でも知られているように江戸時代、鎖国政策のなかで長崎は海外に開かれた唯一の貿易港でした。
幕末の安政5(1858)年、五カ国(ロシア・フランス・イギリス・オランダ・アメリカ)との修好通商条約が締結され、翌安政6(1859)年に長崎は横浜、函館とともに新たな貿易港として出発しました。そして、この年湊会所が設置され、貿易・外交に関する事務がこの地で開始されました。

運上所跡
前述の『鉄道発祥の地』のすぐ横にこの『運上所跡』の石碑が建っています。上記の湊会所が文久3(1863)年運上所と改称され、この地で税関の前身となる外国船に対する徴税、荷改め等の業務を行っていました。明治6(1873)年に長崎税関と改称され、この石碑のある場所(市民病院の所)に新しく税関庁舎が設けられたのが明治24(1891)年のことです。
そして昭和3(1928)年に現在の出島町に移転し現在にいたっています。

 

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