第五回/坂の街 長崎
今回は坂の街長崎特集として個人で素晴らしいサイトをお持ちの方々に
ご協力いただき長崎市内の坂の名所やその歴史を紹介いたします。

 

【長崎は間違いなく日本一の坂の街】

斜度5度を越える斜面面積比率が、長崎市は80%に達しています。(神戸市は30%弱)更に10度以上の急傾斜地が46.9%、14度以上が19.6%もあります。

【長崎市内の坂の名所】

1.オランダ坂は3つあった。
全国的に紹介されるオランダ坂、修学旅行の撮影の名所で、その他、長崎市内の観光にはなくてならない場所となっていますが、実はその『オランダ坂』は3つもあったのです。
   
オランダ坂(東山手)
オランダ坂の元祖。こちらが、通常『オランダ坂』としてTV・雑誌等で紹介されている一般的に知られている坂です。ジョーコインの坂から海星高校、活水女子学院寮へ続く石畳の坂です。
海星高校体育館の登り口に「英国聖公会、会堂跡」の標識が石垣に埋め込まれています。文久2(1862)年に建設され、日本キリスト教史に永久に記念される日本最初の新教会堂でもあります。
『文久元年居留地設定計画書の中で石橋から教会に至るゆるやかな坂道を造って完全舗装する事を決定しました。日曜ごとにたくさんの外国人がこの道を通り教会に行ったので、この坂道をオランダ坂と呼んだ』と記してあります。
<長崎坂づくしより>
   
オランダ坂(丸山町)
料亭青柳(あおやぎ)の前の通り(山崎屋の坂)を南に進むと左右に小道が分かれます。左の小道で電車通りに通じます。
オランダ坂を正覚寺(しょうかくじ)の墓地に沿って上って行くと福屋という西洋料理店があったのでついたという説があります。
丸山は、江戸の吉原・京都の島原とともに日本の三大花街でありました。
オランダ屋敷には、本国から女性を連れてくることを禁じられ日本の女性も丸山の遊女だけが出入りを許されていました。遊女はあまり目立たないこの坂を通って、今は暗渠(あんきょ)になっていますが、思案橋の通りの銅座川を下り出島へ通っていったのです。
<長崎坂づくし/丸山町の尾崎敏夫様より>
   
オランダ坂(大浦天主堂・グラバー園に向かう坂)
長崎では昔、外国人のことをすべて「オランダさん」と呼んでいたこともあり東山手と南山手の居留地に通じる石畳の坂はみんなオランダ坂と呼ばれていたといいます。東山手のオランダ坂と区別するために下り松(さがりまつ)オランダ坂というようです。
ただし、現在はコチラを一般的にはグラバー通りと呼んでいます。
グラバー邸に大きな松の木があったことからグラバー邸を『南山手一本松』と称し、この一本松の名称から海岸通りの埋め立て地を『下がり松』と呼んでいました。その後、縁起が悪いというので松が枝町に改称されたといいます。 現在、『下り松』の名前が残っているのは史跡『旧長崎税関下り松派出所』に使われているぐらいです。
<長崎坂づくし/浜崎国男著長崎異人街誌:昭和53年9月葦書房発行>
   

2.どうやって通るのか??
六角道/ろっかくどう(上西山町・立山一丁目・西山町一丁目)
日本銀行長崎支店西側から知事公舎前を通り立山の長崎中学校へ上がる坂です。
長崎公園の中にある道路で車も通れますが、道路の真ん中に『くすの木の大木』が7本ほどあります。とくに、県立図書館横のくすの木の左側を車で通り抜けるのは相当の勇気が必要となります。長崎の人でもどうやって通るの?と思ってしまうほどです。
坂を上っていくと右側に『六角堂』という屋根が六角形をした東屋があります。この六角堂から『六角道』と呼ばれるようになったと思われます。それともカーブがたくさんあるから『六角道』と呼ばれるようになったのでしょうか?
<長崎坂づくし/西山台2丁目の満本隆介様と西山蒲原タクシーさんより>

3.悲しい坂
西坂(西坂町)
長崎駅前でNHK長崎放送局横、坂を登ると西坂公園があり”26聖人殉教碑”があります。
昔は、海中に突き出た小さな岬でその高台に刑場があったそうです。豊臣秀吉の禁教令で宣教師ペトロ・パウチスタら外人6人、三木パウロら日本人20人が京都、大阪などで捕らえられ長崎に送られ慶長元年1597年この刑場で殉教しました。1862年ローマ法王から聖人に列せられ国際的巡礼地となっています。
<長崎坂づくしより>

【休み石/思いやりの心】
長崎市桜町の『長崎商工会議所ビル(長崎しにせ会事務局)』の東側の通りを南に下って行くと突き当たりのカドにこの『休み石』はあります(桜町7−1)。
 この石に腰を掛けて休憩したか、背中にかついだ荷物をこの石に乗せて休んだのでしょう。お年寄りが坂を上るとき、荷物を持ってあげることは普通のことだそうです。おもいやりの心がいつまでも残って欲しいと思います。
<長崎坂づくしより>

【不便と趣きのある坂】
長崎は坂(階段)がおおいことから車が通らない道は数多くあります。そしてそこへどうやって建築資材を運び込んで家を建てたのか?こういう疑問も生じます。しかし今も尚受け継がれている運搬方法があるのです。
初めて見た人はビックリするでしょう。鼻息荒く馬が普通に坂を登ってくると。。でも最近ではあまり見なくなってしまいました。たまたま出会って懐かしく写真を撮ることができました。この「ウマヤサン」と呼ばれる馬を使って荷物を運ぶ職業も現在では長崎市内で2軒に減ってしまったそうです。狭い階段が連なる長崎の町で欠かせない存在でしたが時代と共に消えていってしまうのでしょうか?でも、そうするとどうやって荷物を運ぶのでしょうね?
<長崎解体新書より>
 

取材ご協力・写真資料ご提供 長崎坂づくし長崎解体新書

 

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