第一回/長崎浪漫その一-写真で綴る長崎の明治・大正・昭和
第一回目の今回は加盟店にゆかりのある近郊の今と昔を写真で振り返り、町名の由来・歴史等を紹介いたします。

 

日本で最初の鉄の橋

現在の浜町アーケードの入口に架かる、日本で最初の鉄の橋、その名も【鉄橋(てつばし)】です。慶応3年に長崎製鉄所に発注され、完成は明治元年8月、工費は当時のお金で1万6500両。設計はドイツ人技師のボーゲルがあたり、本木昌造の指揮のもとに作られました。慶応3年5月に中島川の洪水があり、それまでの木製の橋が流されたので当時の最新技術でこの鉄橋が架けられました。【くろがね橋】とも呼ばれています。昭和6年には鉄筋コンクリート製に架け替えられています。


大正末期の鉄橋

現在架かっている橋

長崎市の中心街

浜町アーケードの中に入ってみましょう。この場所は丁度、浜町アーケードとベルナード観光通りが交差している場所です。左の昔の写真中央に松の木が見えますが、これが現在の浜屋百貨店の所になります。

大正時代の浜町商店街

現在の浜町アーケード

思案橋から鍛冶屋町

左の写真、人力車のそばと右には当時の思案橋の欄干が見えます。昔は清流が流れていたそうです。今はご覧の通り、川は存在しません。

大正末期の風景

現在の風景

長崎町名事典

このコーナーでは今回、登場しました近郊の地名の由来・歴史を紹介します。

 

【浜町】
昭和41年、当時の東濱町全域と西濱町・鍛冶屋町・銅座町・萬屋町の各一部が合併した区域となり、その大半が旧東濱町・西濱町であったことから従来の町名にちなんで浜町となりました。
『旧濱町』
慶長13年(1608年)頃までには萬屋町の海岸寄りの所に引き続いたかたちで商店街が形成され海岸の町として賑わっていました。寛文3年(1663年)には現在の浜町にあたる海岸に最初の新地の築立てを行い、続いて延宝4年(1676年)に中島川沿いを築出するなど、浜に面した便利な町として濱町は発展し、薩摩藩・久留米藩・五島藩の藩屋敷などがありました。その後、寛文の大改革により、東濱町・西濱町の二町に分割されました。なお、濱町は【はままち】【はまのまち】【はまんまち】と地元での呼び方はいろいろありますが、決して【はまちょう】とはいいません。
『旧東濱町』
寛文12年(1672年)、旧濱町を二町に分割し、東側を東濱町と称しましたが西濱町同様、埋築により町域を広めました。今では考えられませんが東濱町は西濱町に比べるとさびしい所でしたし、広い空き地もありました。例えば幕末の頃、現在は浜屋百貨店の所も空き地で、明治になり長崎警察署が建ちました。東濱町の築地には、享保10年〜元文3年(1725〜1738年)の間、鋳銅所が設けられていました。この跡地は東濱町内の銅座跡と呼ばれていて明治元年(1868年)に東銅座町・西銅座町と町名がつけられています。昭和41年、現在の浜町に編入されました。
『旧西濱町』
寛文12年(1672年)、旧濱町を二町に分割し西側を西濱町と称しました。中島川と海岸に面した町として大いに発展しました。昭和41年、西浜町と銅座町に分割されました。

【鍛冶屋町】
昭和41年、当時の今籠町の全域と鍛冶屋町・萬屋町・榎津町・銀屋町・高平町・八坂町の各一部が合併し現在の鍛冶屋町となりました。商店街から大音寺・発心寺等を経て、崇福寺につながる通りで構成されています。
『旧本鍛冶屋町』
当時は町外れの荒地であった中島川の対岸に鍛冶屋が集まり、鍛冶屋町となったが、更に発展し今鍛冶屋町ができたとき、最初にできた鍛冶屋町を本鍛冶屋町と改称しました。長崎の町の発展に伴い、本鍛冶屋町も、すっかり町中に含まれるようになっていきました。それで今度は雑貨・日用品を扱うお店が集まるようになったために、延宝6年(1678年)に萬屋町と改称されました。
『旧今籠町』
新籠町が正保年間(1644〜1647年)に今籠町として改称されました。大音寺門前にあったので、本籠町(十善寺籠町)に対し分かりやすく大音寺籠町と俗称しました。昭和41年(1966年)に、現在の鍛冶屋町内に編入されました。
『旧出来鍛冶屋町』
寛文12年(1672年)に今鍛冶屋町が二町に分割され、今石灰町寄りを出来鍛冶屋町と称しました。明治の初めには再び今鍛冶屋町と合併し、鍛冶屋町となりました。
『旧高麗町』
朝鮮高麗の人々が住んでいたことから、この町名がつけられました。高麗の人たちは、秀吉の朝鮮の没後、長崎に移住して海岸の近い当時の郊外地であった榎津町のはずれに住みついたのであろうと考えられています。やがて、この付近を含めて浜町の海岸と中島川筋が発展するにつれて、人々は新高麗町に移され、高麗町は鍛冶屋町になりました。
 

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