社屋外観
地図

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創   業: 1894年(明治27年)
代   表: 藤村 昌憲
業   種: 医療用医薬品卸売一般販売
所在地: 〒851-0134 長崎市田中町2022
TEL 095-837-8331
     
     
     
藤村薬品株式会社の創業者、藤村萬作は文久2年8月29日、四国の伊予の国八幡浜(現在の愛媛県八幡浜市)で生まれました。「伊予の大阪」といわれるほど商いも盛んな土地柄でありました。特に「伊予船」と呼ばれる交易船の商売は古い伝統があり、萬作が十代の後半、明治13、14年ごろにこの伊予船に乗り、商の環境の中で育ち、青春期を迎えて商業の道に進んだのでした。
当時の長崎は、西日本随一の貿易港でした。九州のあちらこちらの港町を見てきた青年萬作は、この活気に満ちた長崎の街に魅せられてしまいました。
明治18年12月16日、萬作は「薬舗 西脇金星堂」に就職しました。この時萬作24歳でした。入店した時には、既にこちらの先代は死去しており、二代目の金三郎が店主でした。文久元年生まれで萬作の一歳年上であった、いわば同世代。これが後年、萬作と義理の兄弟になるほどの信頼を深めることになりました。入店して5年目の明治23年に西脇金星堂は業務を拡大し、大浦相生町に分店を新設することになりました。萬作はその分店の主任を命ぜられました。店主である金三郎は分店開設の4年後のある日、萬作にこの店を譲るから独立してはどうか、と話を切り出しました。同時に自分の妻リンの妹ナヲと結婚しないかと縁談を持ちかけ萬作にとって二つの嬉しい話が同時に舞い込み胸にこみ上げるような感激を禁じ得ませんでした。
こうして藤村薬品株式会社の出発点である「薬舗 藤村萬盛堂」は明治27年6月10日に開店したのでした。
   


大正末年頃
大浦くんちお旅所設営風景
(フジムラ薬局がみえる)

商売は創業以来順調に伸び、結婚して13年も過ぎましたが、妻ナヲとの間に一子もできませんでした。40代の半ばを過ぎた萬作にとって、これが唯一の悩みでした。宮崎県の延岡で缶詰工場を経営していた萬作の弟である藤七の次男を養子に迎える事にしました。
次男の名前も「萬作」であったため、これからの日常生活で父親と同名では困ることから、祖父の名前をもらって「幸七」と改名しました。
長崎の街にも近代化の波が押し寄せ、外国人居留地の指定は明治32年に解除されたものの、大浦一帯は外国人の出入りがまだまだ多く、このような外国船員などの大量の買物がしばしばあって、大浦ではよその場所では滅多に見られないおもしろい商いが多くありました。
 
幸七が熊本に遊学中に初代萬作が突然の死去。当時の平均寿命に比べ、早世とはいえないまでも、まだ第一線で活躍の最中でありました。享年59歳。
店は母親のナヲが経営を続けてましたた。幸七は不眠不休の勉強の成果もあり無事に卒業、薬剤師の免許を取得することができました。大正10年6月にはそれまでの薬舗の看板を薬局に変え、自らその経営に取り組むことになりました。
卒業と同時に幸七は名前を幼年時代の旧名に戻し、萬作と改名しました。ここに二代目萬作が誕生したのであります。
   


本社 大波止の頃
 (長崎市元船町)

大波止の埋め立て地が市から分譲される情報を知った二代目萬作は、胸がときめきました。入札に参加し見事に落札。昭和4年6月に移転しました。萬作の見込みは見事に的中しました。通りの賑わいは早朝から深夜まで続き、一般の客も多かったのですが、離島の医師や薬局の先生方も大波止の萬作の新店舗を利用し、顔馴染みが多くり、顧客が増大しました。現在の藤村薬品が五島をはじめ離島に強いという遠因はここに始まったのです。
そして薬局の名称を「藤村萬盛堂」から「藤村幸盛堂」に変更、萬作の幼名幸七から「幸」を採っています。この地が第二番目の店を立地する場所となりました。
昭和21年2月に藤村幸盛堂薬局が法人化をいち早く決意し「株式会社藤村商店」として発足しました。
昭和25年には経営的には苦しい時ではありましたが、藤村商店にとっては希望の持てる年にもなりました。長男で後継者である哲朗が入社したのもこのころです。
昭和32年7月25日の夜、諫早市を中心に記録的集中豪雨に見舞われ、本明川は大氾濫し、被害者は四万人を超える史上まれにみる大災害になりました。諫早大水害です。翌日県庁から「暑さで伝染病の発生は水害以上に市民に被害を与える。すぐに消毒薬を諫早に送って下さい。」と連絡が入りました。この日は日曜日だったために福岡市から取り寄せるため時間がかかると説明しましたが、事態が悪化してはいけないと福岡へ急行した。
しかし福岡でも薬品が不足し間に合わない。これには困りました。大阪まで行かなくては入手できない。県の職員と相談し、二つ返事で大阪へ行くことになりました。不眠不休で積み込みが終わり四万人の水害被災者に一人の赤痢患者の発生もないという結果で、苦労が報いられ、住民の衛生、健康に対しての使命、責任を果たした誇り得ることでありました。
また、藤村商店の社会的な信用とその地位を高めたことにもなりました。
昭和33年7月に「藤村薬品株式会社」に改名しました。商圏は拡大され、長崎県下や佐賀県、熊本県(天草)に広がっていきました。
   


本社 浦上の頃
(長崎市扇町)

二代目社長萬作は昭和44年に古希を迎え、社長の椅子を長男哲朗に譲り、第一線を退いて取締役会長に就任しました。店舗も大浦の創業の地から大波止へ、そして扇町へと移転し、それを節目にするように社勢の発展、伸長を陣頭で指揮してきた。二代目萬作は享年96歳の天寿を全うしました。明治、大正、昭和の激動の時代を仕事一途に生きた生涯でした。
三代目の社長を受け継いだ哲朗は昭和4年生まれで、就任したのは40歳の時です。昭和36年、池田内閣が成立し、「国民所得倍増計画」が発表されました。その後の日本経済は高度成長時代を迎えました。消費物資の流通は年毎に増加していきました。売上げや商品量の急増はどの業種の流通業も同様の現象が出ていました。これに加えて商品の搬送が自動車に代わったので駐車場がなく、道路も旧来通りの狭さであるために、営業環境はますます厳しいものになっていきました。
長崎の卸業団体では卸団地を造成し、共同の力で解決をしようという方向に向かっていました。既に佐世保市では、その団地開発が実現しつつありました。これをモデルとして長崎県央地区の物流センター建設へ意思が統一されていったのです。
   


現在の社屋
(長崎市田中町)

昭和54年に現在の田中町に新築移転しました。
流通企業の設備の生命は商品管理の適正と合理性、能率性です。この要求をほぼ万全に対応できる設備ができたのでした。
電算システムを導入し配送システムの合理化を行いました。また昭和54年6月に諫早市の重松薬房との合併や昭和62年介護製品のレンタルを行うコーセイメディカル部を開設(現在:株式会社コーセイメディカル)し、新たな事業展開を切り開いていきました。 四代目社長に哲朗の長男にあたる藤村昌憲が就任。
平成21年4月株式会社フォレストホールディングスのグループに参入し、資本業務提携を締結しました。
平成21年で、115周年を迎えた藤村薬品株式会社の歴史は、創業の大浦から大波止へ移るまで35年、大波止から扇町へ36年、扇町から田中町まで13年です。企業の成長過程として見れば扇町の時代は、近代的な法人企業への脱皮であったともいえます。個人商店から出発し、大波止へ進出して、戦後に株式会社に改組されました。小売が従で卸が主に営業が移っていきました。従業員の増加、取り扱い商品量の膨張は年毎に近代企業への成長を遂げました。

これからも「長崎でより深く密着、医療・福祉を通じて皆様の健康。そして地域へ貢献・奉仕しに努めていく企業であり続ける」と社長は語ります。
 

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