店舗外観
地図

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創   業: 1830年(天保元年)
代   表: 岩永 徳二
業   種: 和菓子全般及び注文品
所在地: 〒850-0873 長崎市諏訪町7−1
TEL 095-822-0977
ホームページ http://www.baijyuken.com/
     
     
     


明治時代の店舗写真

天保元年(1830年)、現在の長崎市勝山町で初代店主、岩永米造によって創業されました。それから丸山町(元・矢寄町)、鍛冶屋町へと移り現在地である諏訪町(中通商店街)に店を構えたのが明治35年、 四代目徳太郎の時です。現在の店舗はその当時のままの状態で今も受け継がれています。徳太郎は弊社の主力商品である『もしほ草』の考案者でもあります。現在の代表は六代目、徳二。中島川に架かるめがね橋からほど近いこともあって、店を訪れる方の中には観光客も少なくありません。
「四季を表現し、食べる者の五感を満足させる」と評される和菓子の世界にあって、その老舗の伝統と味・技を守りつづけるのは簡単ではありません。一般的に有名で需要の面からいくと新規出店も考えられるのでしょうが、店主はそうではありません。菓子は品質・味の管理が大切、あまり店を増やすと、自分の目配りが効かなくなってしまう。まずは地場をしっかり守っていく事が先決だということです。
   


大正時代の店舗写真

現在、シンボルとなっている看板は大正時代に掲げられたもので舟の底に使っていた板で作られたものです。

そして建物全体としては1996年長崎市都市景観賞の歴史のある部門で受賞しています。
 

 

   
和菓子においての自信と誇り。そして伝統。
食するほどに職人たちの熱い鼓動が聞こえてきそうな和菓子の魅力。その歴史は古く、一説では遣唐使の時代までさかのぼるといわれています。その中にあって「梅寿軒」は県内でも有数の老舗として熟練された職人たちの手によって、その伝統の技と味は今日まで受け継がれています。
ある文献に『明治42年、九州日の出新聞社の主催で長崎市内菓子商の人気投票が約3週間にわたって実施された。この間、得票数の順位はめまぐるしく替わったが、最終締め切りの結果、梅寿軒が61,737票を集めて見事一等』とあります。当時の人気もここで伺えます。

地場を守っていくことが先決
現在、店舗は諏訪町の本店だけです。全国からの注文は現在、コチラの通販サイト他の配送でカバーしています。現代表、徳二はこう語ります。「新規出店は今のところ考えてない。菓子は品質・味の管理が大切だから、店舗を増やすと自分の目配りが効かなくなってしまう。まずは地場をしっかり守っていくことが先決」と。
梅寿軒では材料の配合は代々、職人の口伝えで受け継がれています。配合表のようなものはなく、昔は計量の場さえ、ほかの職人には見せなかったといいますから、やはり目配りの効かなくなる大量生産、出店の計画はやりたくないというのが心情でしょう。
   
一年の歳月を費やし完成する『寒菊』
創業以来の伝統を誇る梅寿軒の代表的な菓子『寒菊』は、寛永年間(1624〜1643)に明との貿易によって渡来したといわれています。その形は菊の葉をあるいは花を、表面の白は霜が降りたところ、あるいは雪が積もったところを表現したといわれています。毎年12月〜2月にかけての寒い時期に仕込みを開始、ついたもちを1ヵ月間乾燥させ、その後1年間低温庫で寝かせて焼き上げます。焼いた餅に生姜を入れた液状の砂糖をかけ2〜3週間、ここで完成します。甘く香ばしい風味で人気のこの菓子も、その裏では大変な手間と時間をじっくりかけて完成するのです。
   
もしほ草の考案
『寒菊』と同じように主力商品である『もしほ草』は三代目徳太郎が考案しました。昔は、塩を作る時に海草をかき集め、みすの上に乗せ塩水を汲みかけその塩水を煮詰め、水分を蒸発させて作ったそうです。この海草のことを『藻塩草』と言っていました。藻塩草(ホンダワラなどの海草)を『もしほ草』として、求肥と昆布を使ってお菓子で表しました。表面の砂糖で、藻塩草の塩を表し、お菓子全体で波打つさざなみを表現しています。
   
 

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